#90 子ども食堂は、「手段としてのサードプレイス」

田中さん

ぼくは常に「手段」と「目的」という風に考えるのが好きなんです。そして、目的が同じなら手段は違くていいという考え方をします。つまり手段にはヴァリエーションがあった方がいい。その方が、藁を掴みたい人たちの藁が増えるわけですからね。

ひきこもり支援業界の第一世代の愚かさは、目的が同じなのに手段の違いに目くじら立てて、未だに相入れることができないところにあります。ぼくは、目的という志が同じなら、手段が違う人たちでも受け入れるようにしています。

さて、『子ども食堂』という、子どもにご飯を食べさせるという手段に群がる大人たち、そこに階層社会があるという田中さんのご指摘。「まあ、そうね」、と思いました。

ムーブメントという潮流が発生する際の絶対条件は、手段(手法)が、支援者/被支援者の両方が美味しい関係であることだと思うんですよ。例えばひきこもりの若者へのアウトリーチ(家庭訪問)という手段は、支援者/被支援者の両方にストレスなわけです。

無反応なドアに向かって話し掛けるなんて、本当に修行のようだし、そのドアが突然開いて、ナイフを持った若者が現れるかもしれない恐怖がある。潮流になり得るわけがないですよね。

だから、ひきこもり青年に対して、「あの子、かわいそうよね、私たちがなんとかしなくっちゃ」とはなりにくい。同じように、いつキレられるかわからない高校生にもなりにくい。そこはプロの専門領域となるわけです。

だから、このムーブメントを分析すると、『子ども食堂』のポイントは子ども×お母さんにあって、お母さんの美味しい気分というのが燃料でもあり、ボトルネックにもなってしまいかねないんでしょうね。

                                 石井

石井さま

子ども食堂という手段は、お母さんにも子どもにもそこそこラッキーなのでは、と僕は思っています。ただ僕が親であれば、NPOや公民館に出かけていくのがめんどくさい。

やっぱり家で食べたいと思うんですよね。だから一番いいのはお弁当というか、宅配サービスかなあ。

けれども、子ども食堂は、そもそも夕飯時に親がいないことが多くなったお家(経済的に苦しいお家でしょう)で、子ども1人でカップラーメンをすすらせない、といったあたりから始まってますよね。

だから、「気軽に人が集まる場所としての食堂」なんでしょうね。

つまりは、食堂という名のサードプレイス。

このサードプレイスは、僕にとってはNPOでも公民館でもないんだなあ。

それはやっぱり、近所にある誰もが知っている場所、歩いていける場所、つまりは、

小学校

なんだなあ。

小学校にあってこその子ども食堂であり、正当な手段としてのサードプレイスではないかと思うのです。★

                                 田中

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