CTuberはVTuberの理想形か?


はじめに


 近頃、某お嬢様がやたらとバズっている。逆張り人間である私は未だに視聴を避けているところではあるが、何やら初配信で自身の胃カメラ画像を見せたらしい。私のような古い人間は、「それってバーチャルなん?」なんて思ってしまう。ほんとうによくない。いや、バーチャルが云々を吹っ飛ばすだけのインパクトではあるのだが……。

 さて、本稿ではCTuberとVTuberについて考えてみる。ついでに、なぜかよくあるVTuber論も語ることとなった。私は非常に影響されやすい性質であるからして、1か月もすれば考えも変わっていそうだが、だからこそ今のうちに書き留めておく。厳密性に特別注意を払っておらず、自分の思考をただただ開示したものであるから、是非適切な批判を加えていただきたい。また私の観測範囲からして、いわゆる企業勢(それも特に大手)にしか当てはまらないことも多いかもしれない。


CTuberとは何か:ゲーム部を中心に


1. 前提

 まず前提として私の主張を述べておこう。私の主張は「CTuberはVTuberの理想形である」となる。または、「VTuberはキャラクターコンテンツである」と言い換えても良いかもしれない。以下、この主張を土台としてあれこれと思索を巡らせていく。

 「CTuber」という言葉をそのままに用いるのは混乱を招く元であろうから、説明を加えねばなるまい。数少ない過去記事を見ればわかるように、かつて私は「ゲーム部プロジェクト」の視聴者であった。「CTuber」や「キャラクターコンテンツ」という表現は、かの有名なUnlimited(現Brave group、本稿ではUnlimitedの呼称を用いる)の声明文中から借用したものということになる。


ゲーム部プロジェクトは VTuber と言うより、色々な理由、動機でゲームに打ち込む 4 人の高校生の物語を描いているキャラクターコンテンツ作品という方が近いかもしれません。

(中略)

そこで、カメラの奥の視聴者の方々に向かって、語りかけることが出来る YouTuber を、今を一生懸命に生きている彼女達にやってもらおうという思いで、VTuber という言葉を借りて、これまでのゲーム部プロジェクトという作品は運営を続けて参りました。

従って、弊社が目指しているのは、VTuber というよりも、どちらかといえば CTuber(キャラクターユーチューバー)という表現の方が、適切なのかもしれません。

私たちがゲーム部プロジェクトを立ち上げた経緯と、ゲーム部プロジェクトが目指す未来について


 恐らく多くの人にとって既知の情報だろうから、ここではゲーム部プロジェクトを巡る詳しい事情を省略する。もし全く知らないという方がいれば、以下の記事などを参考にされたい。内容について全て支持するわけではないが、余計な情報をなるべく目に入れずに簡単な事情を把握するにはうってつけであろう。

 また、「ゲーム部プロジェクト=CTuber」という大前提の元に論を進めている。したがって、ゲーム部プロジェクトの実態と一般的なCTuberの理解に差があった場合は、後者の方が間違っているということになる。


2. 「CTuber」の定義って何?

 ただし、ここで使用されている「CTuber」の定義については少々補足を加える必要があるように思われる。ゲーム部プロジェクトやHELLO KITTY CHANNELがCTuberの代表例ではあるが、CTuberを端的に表現することは難しく、人によって用い方も異なっているのが現状だろう。

 ここで先述の大前提を思い出していただければ、要するにゲーム部プロジェクトがどんな存在だったのかを明らかにすればよいということが理解できるだろうか。したがって、特にそのキャラクター性に着目しながら考えてみることとする。

 例えば、KAI-YOU キーフレーズではCTuberが以下のように紹介されている。

CTuberはVTuberから派生して現れた概念であり、いくつかの類似点と相違点を持つ。

大まかな定義は下記の通り。

・VRやアニメーションの技術を用いてYouTuber活動(動画投稿、SNSでのファンとのコミュニケーション等)を行う
・中の人は、中の人の個性を出すのではなくあらかじめつくられたキャラクターを演じる

CTuber(しーちゅーばー) とは|KAI-YOU キーフレーズ

 これらの定義は比較的多くの人が用いているものであって、VTuberと比較する文脈においてはもっぱら後者の定義が持ち出されることとなる。しかし、ゲーム部プロジェクトを語る時にこの定義を用いるならば、私にはそれが間違いだと思われて仕方がない。その拠り所となっているのは、ゲーム部プロジェクトと同じくUnlimitedによって運営されていた「道明寺ここあ」の存在であって、彼女の「卒業」に際して発表された文章を取り上げてみたい

弊社としては現アーティストの歌声、演技を最大限に活かし運用してきたプロジェクトでしたので、何とか継続して頂けないかと事務所の方と話し合いの場を度々設け、様々なご提案を行いました。

道明寺ここあに関してのお知らせ

 そう長くはない文章であるから、引用元から全文を参照されたい。ここで注目するのは、「現アーティストの歌声、演技を最大限に活かし運用してきたプロジェクト」という言葉である。
 この表現から、「中の人」を完全に排除した「道明寺ここあ」というキャラクターを想定することはできるだろうか。私には到底認めることができない。

 むしろ「道明寺ここあ」とは少なからず「中の人」の影響を受けて構築されたキャラクターだと理解するのが適切ではないか。少なくとも、「中の人の個性を出さず」という条件に合致しないことは認めてよいだろう。すなわち「道明寺ここあ」とは、「中の人は、中の人の個性を出すのではなくあらかじめつくられたキャラクターを演じる」という定義を満たす存在ではないのである。

 ここで生じるのは、「道明寺ここあ」は「ゲーム部プロジェクト」と同じCTuberとして運営されていたのかという疑問である。この点を解決しなければ、「ゲーム部プロジェクトも中の人を排除する存在ではなかった」という論にはつながり得ない。

 この点においても、私はやはり「道明寺ここあ」はCTuberであったという立場を取りたい。「道明寺ここあ」と「ゲーム部プロジェクト」が切っても切れない関係にあることは周知の通りだ。例えば「道明寺ここあ」は「ゲーム部プロジェクト」チャンネルの動画に30本近く出演していたし、逆もまた然りである。さらに「道明寺ここあ」のTwitter運用を見ても、「ゲーム部プロジェクト」同様に作りこまれた設定が見え隠れする。加えて、一般論を持ち出しておくと、キャラクターコンテンツ作品を標榜する「ゲーム部プロジェクト」の中に、異物たる「キャラクターではない道明寺ここあという存在」を紛れ込ませることは考えにくいのではないだろうか。

 一方で、「ゲーム部プロジェクト」と「道明寺ここあ」は2019年8月ごろを境にほとんど動画上での関わりが無くなるなど、ある時期を境に「道明寺ここあ」運営上の方針転換があったであろうことは見過ごせない。しかし、たとえそうであっても、「道明寺ここあ」がCTuberとして運営されていた事実は覆らないと考えている。

 以上、「道明寺ここあ」もまたCTuberであったことを述べた。したがって、ゲーム部プロジェクトについて言えば、「中の人は、中の人の個性を出すのではなくあらかじめつくられたキャラクターを演じる」という定義が不適当であることが導かれるのである。


3. VTuberのキャラクター性について

 
 当該声明が公表されてからもう3年が経とうとしている。私は何も3年間にわたってこのような考えを持ち続けていたわけではなく、ある日TLに流れてきたツイートが大きな契機となった。
 あまり正確に覚えていないのだが、「#いいねの数だけ好きなキャラクターを晒す」だか「#好きなキャラクターを晒す見た人もやる」のようなハッシュタグを用いて、ホロライブのタレントを好きなキャラクターの一例として挙げているツイート群であった。あとは、ホロライブと何かの企業コラボで「キャラクター」という文面を見たことがあったような気もする。記憶が正しければグッズについての注意書きか何かであったから、少々特殊な例かもしれないが。

 とりあえず、VTuberがキャラクターとして紹介され、また同列に語られるような事例があったとだけ覚えてもらえばよい。また、似たような事例を目にしたことがある者も多いだろう。

 HIKAKINやはじめしゃちょーといった一般的なYouTuberは、「好きなキャラクター」として挙げられることがあるのだろうか。もしかしたらあるのかもしれないが、流石に無い気がしている。また、VTuberに似た存在として(リアルの身体を見せず)立ち絵などを用いて活動を行う者たちがいる。顔出しをしない歌い手はこの代表例であるが、彼らもまたキャラクターとしては認識されないように思う。こうした者の中にもLive2Dなどアバターの姿を獲得する者が増えてきたが、それでも同様にキャラクターとは認識されないのではないか。

 さらに、このような者たちの中には、「私はVTuberではありません」という意思表示をする者が増えてきたように見受けられる。私はこの現象について、「アバターなどを用いて活動を行う者」としての広義のVTuberが一般化した一方で、彼らがVTuberを少なからずキャラクター的な存在だと認識しているがゆえのものだと考えているが、いかがだろうか。
 
 話があちらこちらに脱線しているが、VTuber=キャラクターだという極論はともかく、「VTuberはキャラクター性を帯びがちである」とでも結論付けておきたい。


4. 自分なりにCTuberを説明してみる


 いよいよ着地点が見えなくなってきたが、結局「CTuber」とは何者なのか。非常にあやふやな表現になってしまうのだが、CTuberとは、昨今叫ばれている「生主型」あるいは「中の人」重視のVTuber概念に対して、その「キャラクター性」を重視したVTuberの姿だとしておくのが語弊が無さそうである。

 ここで改めてCTuberとVTuberについて整理しておく。


・CTuberは「中の人」を全く排除する概念ではない
・VTuberはキャラクター性を帯びやすい
・CTuberはキャラクター性を重視したVTuberの姿である


 念のため断っておくが、私は何もVTuberにキャラクターであることを強制しようというわけではない。キャラクターを志向しないVTuberがいてもいいし、好きなようにバーチャルの世界を楽しんでもらいたい。ただ、勝手にVTuberのキャラクター性を楽しんでいるだけであって、CTuberの楽しみ方とはそういうものだ。そのことを踏まえれば、CTuberとは以下のように説明されるべきかもしれない。


CTuberとは、キャラクターとして消費されるという観点から見たVTuberの一形態である。VTuberはその性質上キャラクター性を帯びやすいのであって、多くのVTuberはCTuberとしてのポテンシャルを備えている。


 まだ非常に曖昧だが、言わんとするところは伝わるように思うので、当分はこれをCTuberの説明としたい。私が強く主張したいのは、CTuberは決してVTuberから独立した概念ではなく、VTuberの在り方の一つでしかないということである。


5. Unlimitedが用いた「VTuber」とは


 Unlimitedの声明では「VTuber というよりも、どちらかといえば CTuber(キャラクターユーチューバー)という表現の方が、適切なのかもしれません。」という説明がなされていた。この説明は非常に狭く定義された、そして恐らくは「中の人との1対1の対応」を強く意識した「VTuber」という言葉の上に成り立っていたのであって、そのことが混乱を招く原因となったと考えている。

 「VTuber」という言葉は、無批判に用いて良いほど定まったものではなかったはずである。仮にそのままに用いるならば、「アバターなどを用いて活動を行う者」といった非常に広い定義をとるべきであった。

 当該声明は理不尽な声優交代に伴う炎上の中、その応答として出されたものであって、「中の人」に重きを置いてVTuberを定義したことに理解はできる。理解はできるのだが、実態を反映していないものだと言わざるを得ない。当該声明は、それまでのVTuberの在り方や(彼らの表現でいう所の)声優スタッフ、そして何よりも、彼らが作り上げた「ゲーム部プロジェクト」というコンテンツに対してのリスペクトを欠いていたとしか思えないのである。
 付け加えるならば、これ以前にハローキティが「CTuber」を自称しているのであって、「ゲーム部プロジェクト」とは異なる在り方を表すはずの「CTuber」を自称したことが、「CTuber」を混乱させた最大要因であった。

おわりに


1. VTuberのイメージについて


 書いている途中で何となく思いついた「中の人」「キャラクター」のイメージについて記しておく。
 
 「設定の奥に見え隠れする中の人の存在が楽しい」とか、「しばらくすると素が見えてきて面白い」とか、VTuberをそういう風に楽しまれている方もいると思う。その種のファンが増えてきたというか、それを通り越して「中の人と同時推し」みたいなファンもまあまあいるらしいのだが、その種のVTuberファンは、何となくVTuberを以下のようにイメージしているのではないか。おぼろげながら頭の中に浮かんできたイメージがこちらである。

「VTuber」という惑星の断面図みたいなイメージ

 地球の内部構造を思い起こしていただくと、「中の人」が内核、VTuberとしての「キャラクター」が外核という風になる。「キャラクター」の主成分は設定やそれに基づくRPということになろうか。マントルや地殻は単純化のために無視しているが、実際には別の要素が層となって覆いかぶさり、「VTuber」の一部となっているのだろう(何層になるかは要検討)。

 ともかく、このように「中の人」が「キャラクター」によって覆われているようなイメージが持たれていると思われるのである。「キャラクター」の厚さはVそれぞれであって、ペラペラの者もいれば極厚の者もいる。そして、どういった風に「中の人」が露出するのかといえば、もっぱら「キャラクター」が失われることによる。日々の出来事や慣れによって、少しずつその厚みが失われていくこともあれば、ふとした拍子に一気に「キャラクター」の層に穴が開くこと、下手をすれば「キャラクター」の層が崩壊してしまうこともあるだろう。そうして、「中の人」が顔を覗かせてくるということになる。

 しかし、こうしたイメージは私のVTuber観とは異なっている。私のVTuber観を先ほどのモデルを用いて説明するならば、「キャラクター」と「中の人」は固定的ではなく流動的なものであって、絶えず対流しながら混ざり合い、一つの「VTuber」を形成しているという風になる。この場合、はじめは先ほどのモデルのように「キャラクター」と「中の人」がきれいに分離しているということになるが、基本的にこの状態が視聴者に観測されることはない。というのは、VTuberには恐らく準備期間というものが存在していて、その期間に「VTuber」の形成が進行するからである。企業勢であれば、オーディションなどを経てデビューするまでに一定の期間が設けられるだろうし、「#VTuber準備中」なんてものもある(これについて私は全くの無知であって、実際はそういうものではないのかもしれないが)。

 このような説明をしたうえで、さらに言えば初期段階における「中の人」が占める割合は、かなり少なく見積もられるべきである。その点から言えば、一見してわかる半径比に比べて、体積比では「キャラクター」の占める割合が大きくなるというこの球モデルはいい感じなのかもしれない。

 せっかくいい感じに思えてきたので、このまま補足を加えてみる。もちろん、「キャラクター」と「中の人」だけで「VTuber」が構成されるなどという面白いことはない。その時々の流行であったり、他の「VTuber」であったり、様々な要素が「VTuber」に影響を与えるのだが、それを考え出すとこのモデルに当てはめるのが難しくなってしまって困っている。

 ところで、先ほどの一般的な?VTuberのイメージを紹介するとき、以下のように述べてみた。

マントルや地殻は単純化のために無視しているが、実際には別の要素が層となって覆いかぶさり、「VTuber」の一部となっているのだろう(何層になるかは要検討)。


 しかしながら、私のVTuber観においては、このような説明が当てはまらないことは明白であろう。なぜならば、「VTuber」が層状の構造を呈すのは初期段階のみであって、まもなく「VTuber」は要素が混ざり合って一体となる。もはや自分でも何を言っているのかわからなくなってきたが、別の要素は既に形成された「VTuber」に取り込まれていき、決して層のように中身を覆い隠すものにはならないという風になる。
 付け加えるならば、「VTuber」はもちろん均一にかき混ぜられているわけではなく、例えば「中の人」の要素がだまのようになっている部分もあろう。こうした部分を見て、「素が見えてきて面白い」という反応をする者がいるのである。


2. 反省と抱負

 ここまで私にとって理想形であるところのCTuberについて述べてきた。おそらくメイビー「ペルソナ」とか「パーソン」といった用語を用いた方がそれっぽいのだろうが、自分の中でそれらを消化できていないので平易な表現を用いてみた。あれらの用語は案外断りなく用いられている印象だが、そんなに一般的なものなのだろうか。

 ところで本稿には重大な欠陥があって、「ハローキティ型」というべきか、「中の人は、中の人の個性を出すのではなくあらかじめつくられたキャラクターを演じる」という定義にぴったりと当てはまる「CTuber」たちの存在を無視しているのである。

 「CTuber」というのは「VTuber」との関連を強く想起させる表現であって、「ハローキティ型」を「CTuber」と呼ぶことは誤解を招く元だと思っているからこそ、このような対応を取っているのだが、「CTuber」を自称したのはハローキティの方が先であることなどに鑑みれば、明らかに真摯な態度ではない。

 そうであっても、私は「ゲーム部プロジェクト型」の「CTuber」を用いて「VTuber」を説明することを諦めきれないのであって、「ハローキティ型」に新たな名称を与えることで何とかならないかな、などと思っている。こうした問題についてはまだまだ議論の余地があると思われ、本稿では多くを語らないこととする。


 最後に、途中で自分でも何のために書いているかわからなくなってきたので、改めてお気持ち表明をしておく。

 私はVTuberについて考えるとき、「ゲーム部プロジェクト」に重きを置いている。それだけ、(良くも悪くも)彼らが残したものが重要であることには疑いようがない。これもまた「ゲーム部史観」とでも批判されるべきかもしれないが、少しはこうした考えを持つ者がいた方が良いだろう。

 しかしながら、「ゲーム部プロジェクト」についての適切な議論がされることなく、VTuberを語るための材料として用いられてきたきらいがある。また、「ゲーム部プロジェクト」を懐古して「今のVTuber」を嘆く者もいるが(実際、少し前にそういったツイートがバズっていた)、果たして「ゲーム部プロジェクト」の本質を捉えているのか疑問が残る。ともあれ、「ゲーム部プロジェクト」への理解が不十分なままにVTuberを語るのは大変危険な行為であって、避けねばならないところである。

 そうであれば、求められるのは参照可能な「ゲーム部プロジェクト」についての基本的理解であって、これがなければ各々が勝手に好きなことを主張しているだけに終わってしまう。その一助となればと思い、概説・通史的なものをちまちまと執筆してはいるのだが、諸事情あってなかなか進んでいないのが現状である。

 そして、CTuberを楽しみたいと宣う私は今どのようなVTuberをどのようにして見ているのだろうか。せっかく隙を作ったので自分語りすべきなのだが、既に400字詰め原稿用紙21枚分もの字数を費やしてしまったため、またの機会につづきを書いてみたい。


追而書


 なんとか本稿を書き終えようとしていたところ、私のTLに以下のようなツイートが流れてきた。哲学研究者で、VTuberの哲学にも取り組まれている方のツイートである。


 勝手ながら似たような指摘をされているという風に感じたので、一連のツイートを紹介させていただいた。「三層理論」の問題点についても指摘されるところである。今年の8月には査読に通ったVTuber論文が刊行されるとのことで、「CTuber」に着目する私とは全く異なるアプローチをされているだろうし、どのように論証を行うのか興味深く注視している。論文の全容が明らかになった暁には、それを受けて色々と考えてみたいものである。

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