【詩】誠意

言葉にならないなんて簡単に言わないで。
死ぬまで言葉を尽くしたこともないくせに。


好いた男は真っ白いキッチンに立っている。トルコ織のタオルを戸棚の取っ手にひっかけて、水滴のついたシンク以外にものを動かした形跡はない。されたことのない料理の痕跡が歪んだ時空の先で待ってる。微笑むな。早朝のマヌカハニー、音はしない。耳はなくなった。まぶたももうきっと無いんだ。昨夜玄関を閉めた時にこの四角いダイニングだけが世界から消えちゃった。どうせ居ても居なくても取るに足りないもの、なんて妄想するほど幼いままでいたかった。クリーム色の書籍用紙をめくれば、貴方にとっては過去。それなのに脳の引き出しから単語を引っ張り出すことすら億劫だって言うの。私の神さまを蔑ろにしないで。脈が速くなり喉の奥からえずくように熱がせり上がり眼孔から水を落とすこの肉を脱ぎ捨てることが出来ればいいのに。ブローカとウェルニッケと、その他のいくつかの網目と、心臓が有った場所に出来た空洞さえあれば他に何も要らない。自動筆記みたいに真空に刻んでいける。もう声帯もなくなった。真っ白のサラダプレートの上に無を載せて差し出される。たっぷりとバターとメイプルをつけて。貴方がその指でつまんだものなら喜んで口に含むと思ってるんでしょう。ハイセンスを真似した誰かの生活がにおう。文字もペンもフォントも紙も服も声も音もいらないんだよ。私は貴方が貴方だから夢中になったんじゃない。ヘテロでもフォビアでもどうでもよかった。私の神さま。
サマータイムに切り替わったばかりの緑色の夜のことだった。橙の光線を放つケンタウルスの七番目の太陽が光ってた。何年何月何日の何時のことだってはっきり言えるけど教えてなんかやらない。日本語が読める何億人もの好奇心から貴方を守ってあげる。桜木町のテラスの影で囁いたことも。モスグリーンのパラソルも。不憫なことにこの世に生まれ出てしまった、青色LEDのイルミネーションも。ねえ、本当に私ほかと寝たっていいんだよ。そうしたら貴方を救けてあげられる?
雷に撃たれる瞬間は唐突で予兆もない。身体が燃えるようだなんて陳腐な慣用句は止めなよ。逆だよ。真っ白になって世界が爆発して燃え上がった中にひとり氷漬けで取り残されていた。ホルモンの増減であっさりと主導権を乗っ取られるのが嫌。理性でも本能でもない細胞の隙間にずっと居て信仰していたい。こうまでしてもまだ愛には足りない。呑みこんで、あるいは筋肉の繊維を辿って、ウエストに隔てられた場所に重力を経て引力を得て、蓄えるものだって一生疑い続けるしかない。貴方と交信するときはいつだって死んでるんだよ。思い出したように息を吹き返して焦げた駅に逃げ込み、燃えさしのJRに乗るとき、いつも気が狂いそうになる。こうまでしても足りなくて貴方に相応しい愛と私が差し出すものは違うんだ。祈りたい。私から離れてほかの誰かに傅いたっていいから、永遠に不滅だと言って。
どこにでもいる男なの。誰も信じてくれないけれど。強く美しく高級で繊細だとラベリングされて、認識票の裏面でほくそ笑んだのかしゃくり上げたのかわからないような顔してる。世界中が、跪くに値する豪奢な主人を妄執する。凡庸で粗野で愚かで不安定な私の神さま。生きることさえままならない私の神さま。閉じ込められた純白で真四角なダイニングは、フロイトが見つけたブラックボックス。可哀想で可愛い私の神さま。私だけが貴方を救ってあげられる。潔癖なキューブの外へ出してあげる。嘘だよ。貴方に似つかわしい人がどこか夢の向こうにいるんだよ。だってここから出たら、貴方死んじゃうんでしょう。私は貴方の亡骸にキスをしたい女なんだよ。今すぐ逃げて。今すぐ抱いて。撫でられたくない。こんなにも不完全で、独りよがりで、アガペーにも満たないものを受け取るな。貴方を蔑ろにするのは、貴方自身。お願い、せめてジャンコクトーの想い出をよすがにする美しい人でいて。嘘、ゆきずりのラッパーのファックにも寛容な人でいて。
爆発して滅んだあと荒地になって船橋で猫を探した。軍隊だって宇宙に行けるのにどうして私はヒト科の動物のままなんだろう。肺も肋骨も余計だ。残酷な四月に、酸素のないところで、尻尾だけであなたと番ってしまいたかった。朔太郎も中也も大っ嫌い。貴方が愛し心中しかけたものは全部嫌い。昔ディズニーランドがあった所に壊れた病院がある。遺伝子を組み替えて猫にしてよ。そうして白秋でも出来なかったことをやる。貴方をキッチンから引きずり出してサナトリウムに放り込んでやる。亡骸にキスしたいなんて言った?そんなのうわごとに決まってる。苦しんでも痛がっても薬でもなんでも使って絶対に延命し続けてやる。
カーテンを引いたらあの夜の緑色をしていた。連れ出して投げ出した先の、消毒液くさい病室がまた四角く切り取られて宇宙に浮かぶんだ。ごめんね。責任取って一生喋りかけ続ける。でもそれすら幻だったらどうしようか。本当は夢かわいい色のキッチンで年上の女とスムージー飲んでるのかもしれなかった。荒地の果てには入り口も出口も無い。ぴくりとも動かない指先を見つめてそれすら歌に出来るなんて。しなだれかかって胸板の儚い上下を感じる至福。神さまはいない。私の男だけがここにいる。この告解が本当は何文字何音で出来ているかわかる?それでもああ、愛には全然足りない。


(『愛に似たものとなりはうつろ』所収/2018.11)

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