笑い飛ばされてこそ、ホンモノ⁉️


私はこのブログ(グッドムーン)では、真理(我即神也)のことや宇宙、守護霊様、守護神様、地底人さんのことなど、包み隠さず思いっ切り書きまくっていますが(笑)、もう一つの発信源であるFacebookには、比較的当たり障りのない、出来るだけ、変な人?おかしな人?浮世離れした人?と思われないように、普通人を装っていました(笑)

しかし、地球が危機的状況になり、もう自分の保身を考えている場合ではない、真理(宇宙法則)を全開で発信(発神、発心)しようと決意したのです。

「わかってくれなかったらどうしよう?」

「誤解?されたらどうしよう?」

と思った時、私が大好きな「老子講義」に書いてあった一節が心に浮かびました。



「わかってもらえなくてホンモノなのです!」

「そんなバカなことがあるかと大笑いされてこそ、ホンモノなのです」




老子講義より


上士は道を聞いては、勤めて之を行わんとし、中士は道を開いては、存するがごとく亡きがごとく、下士は道を聞いては、大いに之を笑う。 笑わざれば、以て道と為すに足らず。



上士というのは勿論上等の人、上位の心の人という意味ですが、そういう人は、道を聞くと、どのようなむずかしい行為でも、勤めてこれを自己の行為に現わそうとするが、中士は道を聞いても、判らないところでも、判ったような顔をしてみたり、頭では理解しながらも、なかなか行為に現わそうとする努力をしなかったりする。

それは道に対する信というものがあまり深くないからで、この人たちにとっては、道というものが、自分の都合次第では存在するようにも思えたり、存在しないものに思えたりするのである。

ところで下位の人になると、道を聞いては、そんな道がなどというものが存在するものかというように、大笑いに笑とばしてしまう、というのであります。

そして老子は、そういう下級の人に大笑いされないようでは、道というには足りない、といっているのです。

こういうところは、老子時代も今日の時代でも少しも変っていません。

今日の宗教者がいくら口をすっぱくして神の存在を説き、神の道を説いても

「そんなものがあるものか、神様があるのなら、何故こんな不公平な世の中を造ったんだ。口惜しかったら、こんな苦労しなくとも楽に食えるような世界をつくってくれ、あなたたちのいうような、神の道なんていうのは、私たちには用はないよ」

などという人々がかなり多いのであります。

老子は神の存在ということと、神のみ心の在り方というものを、ここでは道という言葉だけで説いております。

そして、この道ということが判るのはむずかしいことなので、そうやすやすと理解できるものはない。

だから、現象世界の利害損失のみに追われているような、下級な志の者には理解しがたく、そんな話を聞いたって、一文の得にもならない、と馬鹿にされて大笑いされるものなのだ、道というものはそんなものなのだ、といっているわけです。

実際この世の大半の人々は、利害損得ということが、先ずその想念の先に立つのでありまして、宗教信仰しているような人々でも、自己の現世的な利益を保証して貰いが為の信心であったりすることが、多いのであります。

ですから老子のいうような上志の人は実に少ない人数しかないのではないかと思われます。

しかし信仰の最初は中志であっても、その信心をつづけてゆくうちに、いつの間にか上志の人と同じレベルの心境に到達している人々が、世界平和の祈りの同信には非常に多く存在するのです。

神などあるものか、それよりは飯だ、というような下級な想いの人々でも、医者に見放された病気などのなると、溺れるものは藁をも掴む、というように、神信心の想いをむけることもあるのですから、現在下級のように見えている人でも馬鹿にしてはならない。

人はみな神の光のひとすじなのだ、と私は常にいっているのであります。


 「老子講義」 五井昌久 白光出版
https://ameblo.jp/goodmoon51/theme-10118486984.html


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