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2024/02/26 雑記 「月を好きな人に悪い人はいないよ」

 よく夜に散歩をする。夜の散歩は人通りが少なくて落ち着くし、一日に使いきれなかった体力をいい感じに消費することもできる。「頭はもう休みたがっているが体はまだ動きたい」という時にぴったりだ。散歩をした後でもまだ体が波立つように落ち着かなければシャワーを浴びるし、それで目が冴えてしまったら、諦めて薄めに淹れたコーヒーを飲んで本を読む。悪者のいない人生だなと思う。誰も、何も悪くない。

 散歩に出るとまず月を探す。月が出ていたら、見失ってしまわないような真っ直ぐの道を選んで、散歩の間中、何度も空を見上げる。いちいち確認しなくても月はいなくならない、ということを私は信じていないので「見られるうちに」と思って同じことを繰り返す。そもそも、私がいくら見張っていたとしても月は勝手にいたりいなくなったりするし、私はそれを分かっている。それから、私が特に好きなのは糸のように細い姿をしている時の月で、新月に近ければ近いほどいい。ひそやかなところが、可愛い。ひそやかなのに、きちんとまぶしいところも素敵だ。

 何年か前、好きな作家の本を読んでいたら「今日の月はあなたの親指の爪みたい」というような一文に出会い、びっくりしたことがある。それまでの私は、月はみんなのものだ、あるいは誰のものでもないと思い込んでいたから、あの月をいとも容易く奪って、自分のもの───と独占してしまった作者の表現力に驚いた。(おそらく作者にはそんなつもりはない。しかし私は、作者が物語の中で「あなた」(主人公の恋人)の「自分自身ですら見落としそうな何気ない部分」である親指の爪と空に浮かぶ月を重ねようと思う感性に感動した。主人公が恋人へ抱く独占したい気持ちや愛情をこんな風に滲ませることができるのか。よくある表現に「君は太陽のように眩しい」のようなものがあるけれど、それの逆だ。これはすごいことだと思う。)恋人たちの間では、月すらも二人占めできる。一大事だ。私はその日から、「あなたの親指の爪」はどんな月だろう、と月を意識して見るようになった。月は、細く薄くなるほど爪のように見えた。

 月を見続けて何年か経ち、ようやく私はもう一度月を手に入れた。「爪のような」月を見るため作家の視点に自分の視点を重ねている中で、満月も新月も見たからだ。私は三日月が好きなのだと気づいたのはこの時からだし、「月が綺麗ですね」という言葉は新月の時にこそ言ってほしい、とか、単純に「月が綺麗ですね」と言える人がこの世にいたらいいなとか、ちょっとしたことを思うようになった。月の満ち欠けの中で探し物をしていた状態から、ただ月の満ち欠けに惹かれるようになっていた。

 そんな中で、ちょうど昨日、私が好きだった月が「三日月」ではなくて「二日月(ふつかづき)」であることを知った。本を読んでいた。「二日月」は「新月」と「三日月」のちょうど間、つまり新月の次の日の月のことで、糸のように細く、繊月(せんげつ)という別名もある、と説明されていた。私は途方に暮れてしまった。つい最近、やっと月を取り返したのに───というようなことを言いたいのかもしれない。自分でも分からない、どうしようもない気持ちだ。雨の日の匂いには「ペトリコール」という名前があると知った時はあんなに嬉しかったのに。名前がないと思っていたものに名前があることを知り、それを誰かに言葉という「記号」で「正確に共有した」という束の間の安心感が好きだったのに。

 誰も、何も、私も悪くない。悪者のいない人生だ。私は何かを責めたいという残酷な気持ちにはならないし、自分のものが奪われた心地も、多分していない。「やっと月を取り返したのに」と少しだけ思ったけれど、私は誰にも月を奪われたことはないし、独占したこともない。空にあるだけのそれをいいなと思って見ていただけで、強いていうならば、私が月に心を奪われているくらいだ。20歳になる頃には、こんなことには心が動かなくなっているだろうと思っていた。そうなることが私の望んでいた「気持ちの安定」とか「穏やかになる」ことだと信じていたから。まだ、私の奥のほうは変わっていないし、これからも変わらないでいられるのかもしれない。少しだけほっとした。