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あれから10年。

14:46 地震発生。

都内の駅ビルを移動中。急いで外に出ると、すでに多くの人が建物から溢れ出ていた。道路を覆い尽くす人。都内にはこんなに人がいるのもんなのかと。

目の前の18階建てのビルが大きく揺れていた。もしこれが倒れてきたら逃げ場はない…。死を覚悟したのはあの一瞬だけ。同時に、生きてることを実感した。

隣でおばちゃんが床に手をついておびえていた。何気なく、声をかけた。

「大丈夫ですか?」
「心臓どきどきしちゃって」

もしビルが倒れてきたら、このおばちゃんと一緒に死ぬんだろうと覚悟した。30分くらいだろうか。しばらく声を掛け合って、お互いの無事を確認して、おばちゃんは駅へ、私は会社へ戻った。

会社のテレビからは津波、火災などのショッキングな映像が流れていた。続く余震。16時にはもう上がっていい、とのお達しがあった。ただし、当然電車は全て見合わせ。タクシーも使えない。徒歩で帰る者、会社で一夜を明かす者。それぞれ。

私は30キロ離れた自宅に向けて歩くことにした。

それからずっと、歩き続けた。

出展:日本経済新聞

出典:日本経済新聞

16:30 徒歩帰宅開始。

都内の道は、車の行列、人の行列、まさにアリのようだった。ずっと列をなして流れる人。車は全く動いていなかった。それは東京を出るまで続いていた。

住んでいる場所が近い先輩は、スーツに革靴。なのに疲れを見せない。それだけでもう頼りになる。

道の途中、余裕のある人は僕らを助けてくれた。お店で余っていたホッカイロや充電器をもらったり、地図を見せてくれた。都内の小学校で、水や軽食をもらったり、足を休ませたりした。

この時気がついた。ただ「帰宅」してるだけだと思ってた僕は、このとき「帰宅困難者」になっていたことに気がついた。今僕は「帰宅困難者」で、助けられる立場なのだと。

先輩とひたすら話しながら歩く。励まし合いながら、ではなくただの雑談をし続けていた。そして、25キロ近く一緒にあるいた先輩との別れが訪れた。

「気をつけて」

ひとりで歩みを再開する。ここからが長かった。すでに時刻は午前0時過ぎ。8時間近く歩いた疲労と眠気で、すごく長く、孤独な道のりだった。話す相手がいるということに、どれだけ救われていたか、気づいた。

午前1時半、無事帰宅。母がまだ起きていた。眠れなかったのか、待っていてくれたのか。今度聞いてみよう。疲れもあって、その日はすぐに眠った。

歩行距離 28.6km
歩行時間 9時間

翌日。

原発の映像が流れる。

映像作りの仕事をしていた僕は、映像制作やエンタメの無力さを知った。飢えも満たされないし、寒さも凌げない。エンタメなんて何の役に立たないと。何もできないと。近くの小学校のボランティアに参加しようにも、行って何になると思い、ふさぎこんだ。

あれから10年経った今、エンタメの必要性に気づいてる。どんな場所でもエンタメは必ず生まれるし、共感の源になる。映像は、それを伝える。そう思えるたのは、たぶん無力さを味わったからだったと思う。

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日常は簡単に崩れる。今日生きてるから明日も同じように生きてるとは限らない。「今を生きる」という価値を実感した1日だった。

それを忘れないために、ここに思い出を残しておきます。

#あれから10年


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