Fの悲劇

藤沢アキラはいつも敗北ばかりしていた。今まで読んだ小説を束ねて、新しい価値を見出そうとしていた。藤沢は普段から口数は少なく、運動も得意ではなかった。いろんなことがうまくいなかくて、悔しくて、よく真夜中にチョコレートをガリガリ食べた。夏が過ぎて秋がきて、これと言って何も起こらないまま、高校生活の3年目が過ぎ去ろうとしていた。空中で踊る色の中で、灰色だけを常に愛していた。自分の中のヒーローに憧れていた。

ある日、藤沢はアコースティックギターを買ってきた。これで歌をつくって歌えば良いのではないかと思いついたのだった。新しい歌をつくって歌う。誰かの歌じゃなく、自分の歌を歌う。そのことで自分というものを表現できるのではないかと思った。

ギターと一緒に買ってきた教本を開く。なるほどいろいろなことが書いてある。けれど藤沢は自分の歌が歌えればそれでよかったので、技術的なことには興味はなかった。自分が歌を歌うのに最低限必要な伴奏をギターで弾くことができればそれでよかった。教本のページをめくる。伴奏にはコードというものが必要だと書いてある。コードを弾くためには、いくつかの弦を同時に鳴らす必要があり、いくつかの弦を同時に鳴らすためには、指を実に複雑な形で固定しなければならなかった。

ステップ1に書いてあったコード「C」をとりあえずやってみることにした。ペキペキペキ。ペキペキペキビーン。鳴らない。何度かやってみた。ペキペキペキ。ペキビーンペキペキ。どうしても指の腹が他の弦に当たってしまい、全ての弦をうまく鳴らすことができない。何度か繰り返したが、結果は同じだった。藤沢は呆然とした。こんなところでつまずくのか。こんなところで何もかも終わりになってしまうのか。また敗北してしまうのか。いやだ。諦めたくない、ギターしかないんだ。俺自身の個性を支えてくれるのは、ギターしかないはず。

それから2週間ほど、藤沢は学校から帰ってくるなり、ギターを抱え教本の最初の方のページと格闘した。藤沢は練習している姿を誰かに見られて、からかわれることを嫌い、家に家族が帰ってくるまでの2時間ほどの時間をギターの練習にあてていた。何度も試行錯誤を繰り返したが、ギターは思ったように鳴ってくれなかった。夕方になってカラスが鳴いた。近くの大学の体育館から運動部が練習する声が聞こえる。煮込み料理のにおいがした。練習しているうちに指が痛くなってきた。肉体的な苦痛はいくらか我慢ができるつもりでいたけど、全然上達しないという辛さに加え、リアルに指が痛くなってきて、藤沢の悲しみを深くさせた。藤沢はギターを置いた。明日になれば、弾けるようになっているだろうか。いつか自分の歌を誰かに聞いてもらえるようになるだろうか。

次の日、神に祈るような気持ちでもう一度弾いてみた。ロックの神様、いるんだろう?俺を俺を見てくれ。俺は毎日こんなに練習している。俺には誰にも真似できないような表現ができるはずだ。俺に、俺にギターを弾かせてくれ。ペキペキペキ。ビーン。昨日と同じだった。というか悪くなっているような気もした。結局のところ、青春ってのは何だろうか。俺の泥臭さは、ギターさえ弾かせてくれないのだろうか。それとも、もっと敗北の味を知れということなんだろうか。悔しくて涙がでた。ここで終わるのか、ここで誰にも知られず、一曲もつくれず、舞台にも立てず、というか、その何十歩手前かわからないようなところで力尽きるのか。イヤダイヤダ。それこそ、今までの人生と同じじゃないか。変わるんだ。表現を手に入れるんだ。もう一回、もう一回。

それから1ヶ月ほど秘密の特訓は続いた。しかし、結果は変わらなかった。練習しながら何度も泣いた。自分の指の形がおかしいのではないかと本気で思った。指が人よりボコボコしているから弾けないのでは、指が短いから弾けないのでは、ここから一歩も動けずに終わってしまうのでは。という考えがぐるぐると渦巻き、その度に絶望的な気分になった。ペキペキペキという指の腹が別の弦にあたる音だけが虚しく部屋に響いた。

屈折した光は、いくつかの絶望を超えて彼の元にも届きつつあった。ギターを買ってから、3、4ヶ月ほどたったころ、最初に弾いていたコード「C」が少しだけ弾けるようになった。まだ全ての弦の音がきれいに鳴らせるわけではなかったが、あきらかに弾き始めたころに比べ、いくつかの音が出るようになった。嬉しかった。こころの底から、言いようのない嬉しさが溢れてきた。誰にも言えない一人だけの猛特訓。あんなに涙して、あんなに絶望して、ようやく少しだけ「C」が弾けるようになったのだ。

嬉しくてたまらなくて、やっとこれで表現者の仲間入りができると思った。自分だけの世界を構築して、自分なりのエンターテインメントを生み出すことができると思った。ギターによって、個性を支え、表現者への第一歩を踏み出すことで、自分を救うことができると思った。意気揚々と教本の次のページを開いてみた。Fっていうのが書いてあった。Fをやってみた。F。

ペキペキペキペキペキ。

ん、待てよ、待てよ、待てよ、待てよ、待てよ。ん、なにこれ。何度も教本のほうが間違っているんじゃないかと思って教本を見直した。教本を見る、指の形を見る。どうも間違ってはなさそうだ。ということはなに。この形で音出さないといけないわけ?ペキペキペキペキペキ。いやいやいやいや、無理。これは無理。控えめに言ってコード「C」の700倍ほどの絶望がそこにあった。

ふと気がつくと夜になっていた。藤沢は、あまりの絶望に2、3時間意識が飛んでしまったのだ。お星様が空に輝いていた。ベランダのパーカーが風に吹かれて踊っていた。藤沢はあたりを見回した。近くには見慣れたギターがあった。ここ4ヶ月ほど共に過ごしてきたギターだ。もう一度ギターを握り直す。教本を見つめ直す。間違ってはいない。このピストルのような手の形がFだ。気持ちを入れる。ゆっくりとダウンストロークをした。ペキペキペキペキペキ。

藤沢は思った。この苦さが世界の味か。なるほどね。たまらなくクソッタレだな。イラついてイラついて仕方がないな。いっそのこと世界をべろべろに舐めてやろうか。俺を参らせようとしているんだろうけど、そうはいかないよ。俺は弾いてやる。何年かかってでも、何十年かかってでも、Fを弾いて、表現を手に入れてやる。ふざけてんじゃないよ。これは俺の、俺自身の個人的な戦いだよ。それも全世界を相手取った一人だけのライブだよ。絶対にFを弾いて、オリジナルソングを歌ってやるよ。俺ほどFに絶望したやつはいないだろうから、最高の曲ができるだろうね。魂を震わせることができるような最高の曲だよ。わかったよ、練習するよ。いいかい、たぶんもう一回やっても結果は同じだ。だけど練習してやる。練習して練習して、どうにかたどり着いてやるよ。この戦いはやめられないよ。さぁ、何度でも俺を打ち負かしてみろ。俺は何度でも立ち上がってやるよ。藤沢はギターを抱え直し、ゆっくりとダウンストロークをした。ペキペキペキペキペキ。


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麦畑飛魚

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