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哭けば井戸からかはづ来る


幼い頃に住んでいた借家は瀟洒な造りの二階建てで、当時の己の体の小ささも相俟ってか大層見映えのする一軒家であった。
否、実際大きくはあったのだろう。敷地面積で三百坪と耳にしたように思う。何処まで本当なのか、取り壊されてしまった今となっては全く判じ得ない話ではあるのだが。
外観は、緑色の屋根に少し乳色の掛かった白い外壁だったように思う。前方には小ぶりな丘と壊れた噴水跡のある芝生の敷かれた庭。家を囲むようにぐるりと廻れば裏庭には祖母と母が趣味で営む野菜畑が広がっていた。きゅうりを捥ぐのが好きな子供であった。

車寄せには赤レンガ、薔薇の花が伝えば絵になりそうな、所々錆の浮いた白作りのアーチ、松や無花果など様々な樹木と汚れた庭石、一日中遊び回っても飽くことのない大きな世界の小さな箱庭。

家の中は玄関を入って二手に分かれ、右側には広いリビングダイニングとキッチン。左側には風呂場と厠、それと六畳だか八畳の広さの床の間が和洋二部屋と小さめの流しが添えられており、畳敷きの部屋に母方の祖父母が暮らしていた。


家を正面に向かって左側、ちょうど家の真横に並ぶ横庭にうらぶれた井戸が在った。

元はビリジアン色をしていたであろう手押しポンプはやはりそこいらじゅう錆付いており、一見して動かないものかと思われるが、まるで子供心を試そうとするかのようにかろうじて手押し部分の上げ下げは出来た。上げ下げの出来るものがあれば上げ下げしてしまうのが子供の心理だ。そうして思う存分上げたり下げたりを繰り返し、自分の望むような手応えがないと分かると途端に飽いて対象を今まで見えていなかったかのように扱い始めるのも子供らしさ故である。

わたしはその井戸を好んでいたように思う。

手押しポンプの上げ下げにも飽くることはなかったし、形のよく揃わない板木と不格好な釘を使いぞんざいな仕事ぶりで塞がれた井戸の、板木と板木の隙間に出来た虚から塞がれた地下への空間を覗くのが好きだった。
板木は指が入るか入らないかと云う程の、そそのような形の穴が幾つか空いており、一つ二つの穴から入る少しばかりの陽光が穴の奥底にキラキラと反射して、未だ井戸が涸れていないことを教えてくれた。
閉じられた空間の中に、疾うに誰も彼も目にすること叶わぬ場所に水を湛えた底知れぬ闇がある。それがどうにも魅力感で「どうにかしてこの内へと這入れはしないものかしら」と焦がれるような思いでいつまでも覗いていたものだ。

その日もいつものように覗いていたかと思う。

母はまだ小さな弟の世話に明け暮れ、祖父はテレビでも観ていたものか屋内におり、祖母は裏庭で畑仕事をしていた。
家の中にいると鬱陶しがられるのでわたしはいつも一人庭先にいた。ひとり遊びは嫌いではなかったし、庭には小さな友達がたくさんいたので別段寂しくもない。弟可愛さの余り母親に八つ当たりの如く邪険に扱われる方が余程辛かったのだと思う。
そのような屋内の記憶は曖昧である。
自分が自分で在り得るのは自然の傍らだけだったようにも思える。

いつものように井戸の前、
穴の底からキラキラとした光。
確認すべく覗く。
暗闇はいつも優しい。
何がそこに触るのか、たまに聞こえるピチョンとした水音。
このまま溶けて隙間を通り井戸の中へ這入ってしまえたらと思う。
家の内には怖いものがたくさんだから。


「中に入れて。井戸に入れて」と思いもかけず口に出す。と。

ゲキョ、ゲキョ。

井戸の中から返す声。
こんな暗がりに、閉じられたところに蝦蟇がいる。
どうやって這入ったのだろう。
井戸は何処かに通じているのだろうか。
いつからそこに居るのだろうか。
ずっとそこに居たのだろうか。
わたしのことを視ていたのだろうか。
それとも空を見上げているのか。
狭い苦しと泣いているのか。
独りは嫌だと呼んでいるのか。
もののあはれを嘆いているのか。

それとも井の中は大層心地が良いものだから、
大海の人を哀れと嗤っているのか。


這入りたい、這入りたいとあれだけ望んでいた癖に、そこに蛙が居たことを知り、その御身を心中を想像するだに怖くなり哀しくなり、そして知らずと蝦蟇に覗かれていたことも気づかず覗いては語りかけていた事への些かな羞恥も入り交じり、それきり井戸には近付かなくなった。


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それでも未だ井戸は大好きで、古びて居れば居るほど大好きで、見掛けると人様の敷地内でない限りは近寄って永永と眺めてしまいますし、この辺りで写真集「手押しポンプ探訪録」を所有している人間はわたしだけだと自負出来る。