罪と罪

日本ではあまり馴染みがないが、多くの海外文化圏だと「罪」に相当する言葉は大きく2種類存在している。
宗教上の罪を意味する言葉と社会規範上の罪を意味する言葉が明確に区別されているのだ。

例えば、英語であれば"sin"と"crime"
sinは前者、crimeは後者を意味する。
ロシア語も同様で、”Грех”と”преступление”
ドストエフスキーの世界的名著「罪と罰」の罪には社会規範上の罪を意味する”преступление”が使われているのは、意識して考えてみると面白い。
キリスト教的人道主義の色が強く、信仰が一つのテーマになることが多いドストエフスキーがあえて社会規範上の罪を指す”преступление”を使っているのは意外に思う人もいるだろう。

さて、このように罪という概念を考えると「罪悪感」も2種類に分類できる。
つまり、宗教上の罪を犯したことによる罪悪感と社会規範上の罪を起こしたことによる罪悪感だ。当然この2種類の罪を同時に犯し、同時に2種類の罪悪感に苛まれているケースもあるが(殺人などはその典型)両者は明確に異なる。

後者は非常にわかりやすい。この罪悪感は、ことが露見して自らの名誉が失墜する恐怖、刑務所にブち込まれる恐怖である。
もっとも近年、社会の治安を守る上でこの罪悪感は機能しなくなってきているように思う。社会的な地位や家族などの守るものがない人(いわゆる無敵の人)にとってはこのような社会から非難されることの恐怖がとことん薄れてしまっているからである。
重大犯罪はほとんどこのケースで社会規範上の罪悪感が機能しなくなってしまったが故に起きている。

日本では宗教に無関心の人が多いということを海外の友人に話した時「よくそれで治安が守られているね」という反応をされたことがある。
神の存在について一旦棚上げして考えても、宗教的情操教育を施すことで個々人に宗教的罪悪感を植え付けることは社会治安を維持する上で非常に有用なのだ。
どんなに社会の底辺に生きていても神を信じていれば宗教的罪悪感が働き、規範意識が芽生える可能性がある。

もっとも、ISISの自爆テロのように宗教感情が悪用されて悲惨なケースを生み出しているケースも多い。

現代の罪の総量はイエスキリストが背負いきれないほど多量で多様なのかもしれない。