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調べる。知る。さらに調べる。そして解釈する。

私はあることが知りたくて、国会図書館まで行った。
目星をつけていた文献に目を通し、複写の申請をした。

これだけで割と大仕事なのだが、この後の「知る」時間が楽しみで、まめまめしく手書きの申請書を10枚ほどしたためた。

帰りの電車ではその文献にかぶりつき、私が持っていなかった知見を頭に入れる。

なるほどと思ったり、これ根拠は何?なんて悪態をついたりしながら、とにかく読み進める。

私は「知る」ことは暗記することとは全く違うと思っている。

情報として正しいかを確認するために、ほかの文献をあたったり、1次データが調べられればそこまで確認するようにしている。

なぜなら前提が間違っているままでは内容の議論が進まないし、「私が思うからそうだ。正しいんだ。」という思考に陥りがちだからである。

一方で、「この文献エビデンスがあやしいな」と思っても、最後まで目を通すようにしている。新たな着眼点が見えることがあるからだ。
エビデンスは完璧でなくとも、新しい着想をインプットすることができるため、次に私が調べる対象の候補となり、結果的に視野を広げることになるからだ。

文献を読む時は、批判的すぎても、受容的すぎてもあまり良くないと思っている。

自分の中で信頼に足る文献であるかのラインを決め、そのラインを超えるか否かでその情報の扱い方を変える。それがマイルールだ。

それを考えるのに感覚的だとか理論的だとかそんなことを議論してもあまり意味が無いと思っている。正しい情報を得るには理論的でありたいと誰もが思っている一方、人間である以上、ある程度は感覚で判断することがある。

大切なのは、自分の思考や判断はどんなバイアスがかかっているかを自分で知っていることだ。
何に寛容で何を批判的に見るのか、自分で調べるのもいいし、周りの人に批評してもらうのもいいだろう。

「私は感覚的だ」「私は理論的な人間だ」なんて、自分で決めてしまうことが、どれだけ入ってくるはずの情報を遮断しているだろう。本当にもったいないことだと思う。

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CHIHARU

美容系webメディアにて、記事執筆、編集を担当。趣味はピアノと写真。作曲の勉強も始めました。「音楽 × 写真」コンテンツを少しずつ発信したいなと思っています。平成最後に食べたのは、大好物のあずきバー。
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