小説「事象壁」まだ途中

揚げ油の横を拭く、そのスリルがやめられない。
「かかったら、大火傷だ」
誰に言うでもなく、改めて確認のために口に出してみた。
古びた昭和然としたキッチンは囲われていて、その中で唐揚げがあげおわったばかりだ。
私は疲れた体に鞭を打ち、毎日の繰り返しを黙々と進めた。
品出しのパートは腰を痛めるし、のれん越しに見える子供が携帯ゲーム機をつまんなそうに操作しながら、今か今かと腹を満たすものを待っていた。
唐揚げはもう油切りのバットに整列していて、思春期男子が目を輝かせる状態を保っている。
でも、まだ持っていくわけにはいかない。
まず先にやることがあるからだ。
添え物のサラダは食卓に先に運ばれていて、その他切り干し大根や箸休めに分類されるようなおかずはダイニングテーブルの真ん中に鎮座していた。
「早く拭かなきゃ」
ふきんを持つ手はあかぎれし、応急処置としてセロテープでぐるぐるである。40という年齢にしてはあまりにみすぼらしい。
25で結婚し、その年に生まれた子は15歳。高校一年生になる。
一人っ子男児はむちむちと大きく育って世間知らずをあらわすような見てくれでなんともまぁ、親から見ても憎めない愛らしい子に育った。
「さあ、綺麗にしよう」
私はおもむろにガス台拭き始めた。
そして今私は押し込められたキッチンで至福を味わっている。
先にやる事とは、キッチン台に跳ねた油をボロボロの雑巾で拭き取ることである。
ただの掃除じゃない。綺麗好きというわけでもない。
私の目的は別だ。
まだ冷めやらぬ油がキッチン台にあって、その下をくぐるように一心不乱に拭っていった。
唐揚げだって人間だって、肉だ。ぱちぱち、じゅーじゅーと音をたててあがってしまう。
その隣り合わせの恐怖、ヒリヒリとしたスリルがやめられないのだ。
内心、ぶつかった拍子にかかるやもしれないだとか、煮えたぎる湯よりもタチの悪いものであると脳が信号をしきりに送ってくる。
大火傷では済まないかもしれない。
幸福の隙間にあるこの緊張感を私は貪り続けた。
「おかあーさん、メシまだ?」
遠くの方で息子の声がした。
声を分別してそのまま遮断して、また泡の残る油を横切る。その下を拭う。
小指あたりがかつんとあたって、熱さが掠める。最高潮の刺激を生み出す。
「かあさん!」
心配の混じる怒声が響いた。
私は我に帰る。
「春くん?あぁ、ごめんね。お母さんちょっと疲れてぼーっとしちゃった。」
「何やってんだよ。疲れたなら片付けは俺がやるからとりあえずご飯にしよう。」
「もうできたんでしょ?」
「うん、できた。春くんの好きな唐揚げね。」
「食べたらちょっと横になるわ。」
一人息子の不安と疑念を晴らすように私は食卓に作り終えた唐揚げを持ち運び始めた。

「んじゃ、なんかあったら呼んでね。」
「ありがとう。」
息子は満足して、有言実行片付けを終えた。そのまま、自室に戻っていった。話し声がするので、年頃らしく彼女と電話でもしているらしい。

さて、私はなぜあんなことをしてしまうんだろう。ソファに体を預けて考え始める。
子ができる一年前に夫と結婚した。今でも夫と手を繋いで歩いて散歩に出かけるほどなので仲はいい方だと思う。家族3人暮らし、ルーチンにばたばたと忙殺されながらも何不自由ない暮らしだ。生活の基盤がぐらぐら揺すられることもなく、現代社会において贅沢な中流を過ごさせてもらうこの日々を疑問視する方がおかしい。
なのに揚げ油の横を通らずにはいられない。ひりひりを味合わずにはいられない。
ぼんやり考える。
類似行為として、スマホを電車のドアを越えて片手で操作するという手癖もあった。
ホームと電車の溝に落としでもしたら、連絡は一切たたれれ、金銭の代償も発生する。
なぜか最悪の帰結がよぎるのに、常にあえて行うことをよしとしてまう自分がいた。
振り返って見ればそんな自身が嫌いで心底好きなようだ。
「疲れているせいかな。遠回しな自殺願望なのかな。はたまた直情な坊ちゃんでもあるまいし。」
文学的な事でも言ってその場を収めてみようとした。
けれどなんてことないのだ。
体を焦がす刺激を追い求めずにいられないすぎない。
恋愛で得るドーパミンの代用でしかない。
私は結婚前、同性との恋愛で一回死んだ。
死んだまま、今を生きている。
格好いい言葉であらわしてみても、しょうもないよくあるいざこざだ。
それなのに、事あるごとに思い出しては、高温の油で火傷することを、携帯がぐしゃぐしゃに破壊されることを今か今かと願っている。

彼女と出会いは、セクシュアリティが不明確な時期でまずは私がなにものかを模索していた頃だ。
手当たり次第、多種多様なセクシュアリティを持つ人々に会ってみては自身をカテゴライズしようとしていた。
その出会った中であまりにも軽薄でセクシーで、厭世観の持つ人が彼女だった。
独特のファッションスタイル。中性とも男装とも、フェミニンとも違う。彼女独自の格好だ。
10本の指のほとんどに埋まる指輪。
その指輪はたくさん女を飼っている証であり、彼女を愛した者達の忠誠そのものだ。
中性的でいて、母性を擽る甘い顔。
私は一瞬で彼女に逆上せあがり、彼女を盲信的に愛した。
彼女の魅力はどこか鬼気迫るものがあり、たくさんの1人になることの不安はすぐにかき消された。
振り回されて、ふと安らかな幸せを与えられ、身体中を好きなようにされ、彼女に翻弄された。
生と死の際にいるような、幸せを感じていた。
彼女は地に足のついていないどこか浮世離れしていた。
その俗世に汚れていない純真さが憎めなかった。


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