見出し画像

AVGキャンプ2019

今回のキャンプでは700シュローカあるギーターの全体像とモークシャへの道のり、そしてjiva-ishvara-aikyamまでを見ました。「もうモークシャ得ちゃったかも」、という感想が聞ける充実した、全ての時間がサットサンガの様な、そんなキャンプでした。聖典が教えてくれているtatvamasi, 全てからの束縛からの自由、どれだけ自由なのか知るのは本人のみ。「分かっちゃった」と言うのなら誰も否定できません。否定しているのはただ一つ、自分の自分に関する間違いです。

全てが分かったわけではなくても、「分かった!」という感覚は素晴らしいので、色々な部分をどんどん理解していってもらえればと思います。

ギーターは一つずつのシュローカに全ての教えが凝縮しているような素晴らしい聖典ですが、700シュローカあるので、一つずつ見ていくと時間がかかります。Pujya Swamijiが毎日3-4 クラスしてくださった時も3ヶ月かかりました。東京でのクラスは11章まで来るのに6年かかっています。ですので、今回のキャンプでは全体像を、特に何と何がどうaikyamになるのかを13章まで見ていきました。

今回のキャンプではサンスクリット語のクラスは予定していなかったのですが、リクエストで時間の合間合間に特別クラスもすることができました。文法が初めての人もきちんと簡単な文章読解ができるようになる、短期集中スペシャルなヤツです。

画像1

一緒に時間を過ごす人達と楽しすぎておしゃべりに花が咲きがちなキャンプですが、クラスの前には文法を勉強したことのある人が初めての人をサポートする、というグルクラムらしい光景も見ることができました。こういった勉強の仕方が学べるのはグルクラムの素晴らしいところですね。勉強をするために必要のない事にはきちんと見切りをつけて、勉強する時間を作っていかないといつまでたっても勉強はできるようになりません。グルクラムでも、毎日の生活でも。

一定の期間だけでもどっぷりと勉強が出来る場所と時間があるのは本当に素晴らしいことです。グルクラムはダクシナームールティとプージャースワミジの恩恵に溢れているので、クラスが出来る事、また、お寺に行ったり、ビクシャーが出来たり、一瞬一瞬にblessingを受けている事を感慨します。

画像2

Blessingを受けているという感覚は、言葉では伝える事が出来ないので、ぜひ沢山の人にグルクラムへ訪問してもらいたいと思っております。

クラスでは私も色々なことを学ぶのですが、今回のサットサンガで出た質問と誤解をいくつか上げておきます。

画像3

質問:お寺のプージャー最中にカーテンが閉まる理由
私の回答:お着替え中とお食事中はカーテンが閉まります。デーヴァターだけではなく、brahmanaもご飯を人の前で食べるのを避ける方達もいるそうです。ご飯はお腹が空いている人が食べるもので、もし自分のご飯がお腹が空いている人の目に触れて「いいな~ 自分も食べたいのに」と思われ、その食事がシェア出来ないと、それは清い食事ではなくなってしまうそうです。この理由からだけ、ではないのかもしれませんが、インドの人はbrahminに限らず、食べ物を他の人達の前で一人で食べることはあまりしません。必ずシェアをする、シェア出来ないのであれば見せびらかさない。

私も「自分の食べもを見せびらかさない、他の人の食べ物をジロジロみない」という作法を知らず、電車で旅行をしている時に、前の人が食べているものが気になってジロジロ見ていたら、お弁当を分けてもらった、という経験があります。今考えればとてもハシタナイ事をしてしまったな、と思います。

インスタやFBでは食べ物の投稿が一番多いそうですが、いいね!と思われることが良いことではない場合もあるので、気をつけないといけませんね。

誤解:Jiva-ishvara-I can
私の回答:Jiva-ishvara-aikyamのaijyamはI canではありません。でも、「私なんかモークシャはまだまだ無理」などと思ってしまいがちな人にはJiva-ishvara-aikyam, I can! と自信を持ってもら為に、このように聞こえても良いのかも。

誤解:
Sannyasiは知識を得たという事を先生に認められたからなれるもの、または得ることができるという太鼓判を押されたからなる。
私の回答:Sannnyasaは知識を得るため、それに適した社会の義務から自由になった生活をするために先生から授かるので、知識が既にあるわけではありません。そこにはヴェーダーンタの勉強以外はもう何も興味がないというvivekaとvairagyaがあるべきで、先生は生徒がその生活をして知識をきちんと得られますように、というフルブレッシングを注ぐので、その理由では敬い方々です。必ずナマスカーラムはしましょう。

質問: 全てがisvaraなのになぜわざわざお寺に行くの?知識を得たら自分がisvaraだからお寺には行かないの?
私の回答:サットサンガでよくある質問です。まず、お寺が何なのか、祈りが何なのかを理解しなくてはいけません。お寺はご本尊が祀られていて、特別なプージャーが執り行われ、Isvara へマインドを向けることが簡単にできる特別な場所です。全てがIsvaraだからといって、全てにそのようなプージャーをする事や常にそれらがIsvaraである事を見続けるのは日常生活では難しい事です。カルマヨーガは全てをIsvaraと理解して、全ての行いをIsvaraへのプージャーとして行うので特別なプージャーをする必要はないのですが、それ自体の理解と最終のモークシャへの理解には沢山の恩恵が必要です。そのために、その勉強をするための場所であるグルクラムにスワミジはにお寺を建ててくださりました。

恩恵は常にearnしなくてはいけないもの、とスワミジは教えて下さりました。Isvaraの恩恵は確かに全てに満ち満ちているのですが、tap(自分の所に水道のように引く事)をしなくてはいけないものです。その有効な方法がお祈りをする事です。もちろんお寺に行かなくても祈りは自由意志さえあればどこでもできますが、先にも述べたように 、お寺はお祈りをするのに特化をした場所なので、お祈りがしやすく、プンニャも得ることが出来ます。普通なら地道に手で穴を掘ってtapして行く感じですが、グルクラムのお寺は最強の精度の良いドリルで穴を掘って恩恵をたっぷり得ることが出来る感じです。最高のドリルをスワミジは与えて下さったので使わない手はありませんね。

知識を得た人はそのように自分が恩恵を得るために祈る必要はないのですが、世の為人の為、先生であれば生徒のために祈ります。そして、知識を得るための恩恵を浴びせてくれた Isvaraへの感謝は知識を得た人ほど絶大です。スワミジもお寺に来てお祈りをされていたのですが、その姿はとても美しく尊いものでした。

ヴェーダーンタの勉強をしている人、または知識を得た人はお寺に行かない、又は行く必要がない、と言う人が少なくないのが現状です。行く/行かないは本人次第ですが、私個人の経験から言えば、ダクシナームールティの恩恵が無ければきちんと勉強をする事は出来なかったと実感しているので、勉強をする間はお寺に行くこと、お寺に行けなくても全身全霊で祈る事をお勧めします。

画像4

画像5

犬のように「餌をちょうだい」と足元に擦り寄ってくるクーちゃん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?