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Dānam(ダーナン)

はじめに
インドといえば。。。みなさんは何を思い浮かべるでしょう?

インドの素晴らしいところは沢山ありますが、その中でも日本の私たちが見習うべき文化価値の中にDānam(ダーナン)があります。

Dānam(ダーナン)とは与える、という意味がありますが、与えることができる能力という意味でも使われます。「与える」とは他人や物事にとって、自分が持っているもの、時間、お金などを自分の手元から手放して相手に渡す、または相手の為に使うことです。要らないものを手放す事とは異なりますが、「与える」には「手放す」ことが伴います。

どれだけ得られるか、どれだけ持っているか、で人の成功が決められる今の日本社会。そこには競争があり、社会全体がギクシャクして、不平さが浮き彫りになります。

一方インドではどれだけ与えられるか、で人の成長を測る文化背景があります。そして、与える機会が社会インフラの中にあり、その機会の中で沢山与えられる人こそが人として成長をした成功者と称賛され、Mahātmā(心の広い人)と尊敬されます。お金持ちはお金を持っているだけでは偉くありません。そのお金をどれだけ必要なところで、他のために使えるか、で評価されます。

与えること=Dānam(ダーナン)とは何なのか、またその背後にあるインドの文化を知り、日々の生活の基準を「自分がどれだけ得られるか」→「自分がこの状況でどれだけ与えられるか」へのパラダイムシフトをしてみませんか?その生活はハゲタカのような鋭い目つきで常に餌を狙っている「どれだけ得られるか」の生活よりも遥かにリラックスしていて、充実したものになるでしょう。

Vedaの教えについて
インドの文化の根底にあるのがVeda(ヴェーダ)、Vedanta(ヴェーダーンタ)の教えです。しかしVeda(ヴェーダ)、Vedanta(ヴェーダーンタ)の教えは人が幸せにすべてと調和をして生きていくための叡智なので、インド特有のものではなく、すべての人のためにあると言えます。人の価値観はそれぞれ違いますが、誰もがその人の価値観にあった幸せを求めています。Vedaは人それぞれ違う幸せに見合った、その幸せになる方法を教えてくれています。

人それぞれの幸せ
それぞれ違う価値観や幸せがあるのは、人の成長段階が異なるから、とVedaは教えます。わかりやすい例で、子供にとっては「風船が絶対に欲しい」「この風船がなくちゃ幸せじゃない」と思っても、成長した大人にとって同じ風船は全く価値がありません。だけど、子供だった頃を思い出して「そういえば欲しいこともあったな。」と共感することができます。

成長段階によって変わる人生のゴール
まず初めに、生きていくため最低限必要な衣食住を満たすことが人の幸せへとつながります。衣食住を満たすことがゴールであることをArtha(アルタ)と呼びます。そして、それらが満たされたら次に快楽やお金、地位、名誉がもっと欲しい、または人間関係がもっと良くなるようにという願望が出てきます。そして、それを満たすことが幸せとなります。それのゴールがKāma(カーマ)と呼ばれます。現代の日本や西洋文化の中ではこのKāmaがもてはやされていて、このレベルでいかに沢山の願望を満たすことができるかが成功、幸せとつながると考えられています。しかし、Vedaの教えは、それらを得ること、満たすこと=人の幸せではない、とはっきり教えています。

なぜなら快楽やお金、地位、名誉には必ず限りがあり、ずっと続くものではないからです。もし続いたとしても、それを楽しむための私たちの体や感覚器官はいつしか衰え亡くなっていきます。それらの限りのあるものに幸せをや安心を求めれば必ず「無くなるかもしれない」という不安がうまれ、そして、実際に無くなったときには喪失感に伴う苦しみや悲しみが生まれます。

では、何が人にとっての幸せなのでしょう?この疑問は、Artha/Kāmaをある程度手に入れても満たされていない、と感じる人たちに自然に浮かんでくるものです。しかし、普通に生活していてはその先のゴールがあることは知ることはできません。学校で教えてもらえませんでしたよね?Vedaはきちんとその先にもゴールがあることを教えてくれています。ちなみに、Vedaの文化の中には、この先のゴールを小学校レベルできちんと教えています。人として成長をして、自分の成長に見合った成功をどのように手に入れていくかを教えるのが教育、とも言われています。Vedaで人生のゴールの全体像を教え、実生活でArtha/Kāmaを含める願望をどのようにしたら叶えられるのかを教えています。

Vedaが教えるその先のゴールとは:
人として与えられている自由意思をきちんと駆使して、人として成長をする。そして、その成長したマインドで、Vedantaが教える自分の本質=何があってもなくても満ち満ちている存在

を知ることがその先のゴールであり、究極の幸せだとVedaは教えています。「自分の本質=何があってもなくても満ち満ちている存在、を知ること」をMokṣa(モークシャ)と呼びます。

Mokṣaとは?
Mokṣaとは人として得られる最高の幸せでありゴールです。そんな「押しつけがましい。私にとって何が幸せかは私が一番知っている。」と思う人は「自分が思う幸せ(Artha/Kāma)を追求するがよい」、ともVedaは言い、そのサポートまでも親切にしてくれます。そして、それを追求して、欲しかったものを手に入れて、でもやっぱり幸せじゃない、と行き詰ったときにVedaの言葉に耳を傾ければよいのです。この最後のゴールであるMokṣaを教えているのがVedaの最後の部分(anta)=Vedantaです。

Mokṣaはある程度人生経験を積んで、Artha/Kāmaを得る努力をして、それでもやっぱり自分は満たされない、と気づいた人が自然と求めるゴールです。気づきがあり、準備ができたら求めればよいだけです。Vedaは決してMokṣaが唯一のゴールだといって押し付けているわけではなく、普通の人が求める成功や幸せを求めたけど、やっぱり満たされないと気付いた人に次のステップを教えてくれているだけです。

でも、物質的な満足や地位、名誉を求めて幸せになることには限りがあり、必ず行き詰るのであれば、初めからVedaに耳を傾けない手はないですよね。そしてVedaはそのゴールへ向かう方法をきちんと教えてくれています。

最終のゴールへ向かうための方法
その方法とは:

人間のみが与えられている自由意思を駆使し、環境や人間関係を含める全ての身の回りと調和をしていくように生きること

その調和と、調和を取り持つ法則がDharma(ダルマ)と呼ばれます。そして、そのDharmaが3つ目のゴールとしてあります。 Artha/Kāmaに見切りが付いた後の最終ゴールがMokṣaとなり、Dharmaはその最終ゴールへたどり着くための手段となるので3つ目のゴールです。 Dharma自体がゴールとなる場合もありますが、Dharmaは通常の人が求めるArtha/ Kāmaからの大きなシフトとなるので、その先ゴールや得られる価値を見ることによって、Dharmaを生活の価値観に入れていくことが出来ます。その先のMokṣhaをゴールとしていなくても、死後の世界が良いものになる事などもDharmaで得られる結果に挙げられます。 どの様な理由であれ、Dharmaを目的とした生活をし、成長をしていけば自然とMokṣaを求めるようになる、とも言われています。

そして、そのDharmaな生き方がVeda・VedantaではYogaと呼ばれます。Yogaには「繋ぐ」という意味がありますが、Dharmaな生き方は何を繋いでくれるのでしょう?Mokṣaへの方法なので、「求める私」と「求められるゴール=Mokṣa」を繋いでくれます。

Dharmaに沿った生き方
Dharmaな生き方は、周りと調和をすることが最優先となるので、今までの自分の利益を目的とした「自分がどれだけ得られるか」という生き方からガラリ、と変わり、「自分がどれだけ与えられているかに感謝し、その感謝の表れとして、今自分が出来る事を与える」生き方へのパラダイムシフトとなります。私の恩師Swami Dayānada Sarasvati jiが常におっしゃっていた
消費者から貢献者へ
となる生き方ができます。

周りと調和をしていることから、心のギクシャクはなくなり、今まで自分を振り回していた「ああすればこれだけ自分に利益がある」「こうすれば自分にはこれだけ損がなくなる」とう考えから自由になることができるので、マインドに余裕が出てきます。

良いこと尽くしのこの生き方はどうやったら出来るのでしょうか? 一番分かりやすい方法に「Dānam」があります。

Dānam
Dānamとは与えるという意味です。与えることができる能力のことも指します。

お金だけでなく、自分が持つスキル、時間、あとは愚痴を聞く耳なども含みます。

この与えることができる能力、単に与えられる人が得をするように見えますが、与えることによって得られることは莫大です。自分の手元から今まであったものが無くなるので、一見損をしているように見えますが、Dānamによって自分がどのように成長できるのか、また自分にとってどのような価値があるのかを見いだせれば、何の戸惑いもなく与えることができるようになります。

どのような価値があるのかを見ていきましょう。

① 人として、自然との調和をした生き方ができる
先に述べたように、DānamはDharmaに沿って生きていくための分かりやすい方法です。人としてDharmaに沿う、とはどういうことなのでしょう?

まず、自然を見てみましょう。草木などの自然は自然とDharmaに調和しています。自然のどの部分を見てみても、全ては消費するだけではなく、与えています。大きな栗の木は大地から沢山の水分と養分を消費していますが、同時に二酸化炭素を取り込み、私たちの生活に必要な酸素を与えています。そして秋になれば美味しい栗の実までを与えてくれます。もう少し視野を広げ目見ると、全ての生態系が、消費する以上に与えていることが見えてきます。海はすべての川の水を取り込みますが、太陽の熱で水蒸気として空気中に水分を与えます。その水分が雲となって、風の力で雲は流れ、海ではない部分に雨や雪として地上に水分を与えます。自然はDharma=秩序そのもので、驚くほど巧妙に与える仕組みが作られています。人間だけが、消費するだけで与えない性質を持っているのです。なぜでしょう?

自然界の中で人間だけが与えられない理由
先に述べたArtha/Kāmaが人生のゴールであれば、自分がどれだけ得られるか、が目的なので、与えることができなくなってしまいます。人間のみが自由意思を持ち、私利私欲のためにその自由意思を使うと、物事に執着をしてしまい、それらの物事を手放せない=与えられなくなってしまうのです。そして得たものに対しては「私のもの」というラベルを張り、執着します。人も自然の一環なので、それではすべてのバランスが崩れてきてしまいます。その現状が今の環境破壊や現代人の心のギクシャクに表れているのでしょう。一方、人間のみが与えられている自由意思をDharmaに沿って生きていくために=与えるために使えばバランスの取れた心、体、環境が得られます。

自由意思をDharmaのために使うことが出来るのが人間の特権と言うことが出来ます。逆に、自由意思を私利私欲のために使い、調和を乱すのであれば動物以下ともいう事が出来ます。人として与えられている自由意思の使い方がいかに人間らしく生きていくか、そして人間として成長できるかのカギとなります。

そのDharmaに沿った生き方をするための自由意思の使い方であるDānamの人としての成長を促してくれる側面を見てみましょう。

② Dānamは誰もが持つ、人の成長を止めてしまう障害を取り除くことができる
人は生まれながらに、自分の本質を知らないがので、人・もの・お金・地位・名誉・不動産などの外的要因に頼り安心間を持ち、無くては不安、心配になるという性質を持っています。それゆえに、まず初めにArthaとKāmaがゴールとなります。

実際に人間は食べ物などの最低限の命をつなぎとめるための外的要因が無ければ生きていけません。しかし、その延長線上で、実際には必要のない数々の外的要因に対しても無ければ不安・心配と常に気を揉んでしまいます。それだけではなく、それらが無ければ幸せではない、と思い込んでしまいます。この、~が無ければ私は不安・幸せではない、と思い込むことをMoha(モーハ)と呼びます。

このMohaにより、それらのものを手放せなくなってしまっています。そして、それらが無くなったらどうしようと不安に思うことをBhaya(バヤ)と呼び、手放せない、あるいはもっとなくてはいけないと思うことをLobha(ローバ)と呼びます。初めにも言いましたが、これは生まれながらに誰もが持つ性質なので、これらを思うことが悪い事なのではありません。しかし、
実際になくても大丈夫なのに、それがなくなったら私は不安、それがなくなることに対して恐怖心を持ち神経をすり減らしているのであれば、それを克服していくことが必要です。必要のない心配なのですから。

では、どうやったら「それが無くても大丈夫」なことに気が付けるのでしょう?答えは簡単です。手放してみれば良いだけです。Dānam、与えることによって、私たちは自分の手元にあるものが、手元から無くなったとしても「私はそれが無くても大丈夫」なことに気が付けるのです。

この気づきは日々の生活の中でもとても重要です。なぜなら、数々の不安や恐怖から私たちを解放してくれるので。人にとっての究極の恐怖に死があります。Dānamによる手放す訓練はその死の恐怖さえも克服できるといわれています。「私の体がなくても私は存在する」がVedaの教える「私」です。そして、死は単に「私」が長年付き合ってきた「私のからだ」を手放すだけ。なので私が居なくなるわけではありません。「死」を私が居なくなるイベントだと思うと恐怖が伴いますが、私が体を手放すだけで、私が居なくならないのであれば、その恐怖からは自由になれます。もちろん長年付き合ってきた「私の体」なので、そこには愛着や執着が生まれますが、他の「私のもの」と思っているすべてのモノと同じで、いつかは手放さなくてはいけないのがこの体です。日々の生活の中での手放しは、この死という究極の手放しの準備ということもできます。ですので、インドの文化の中ではこのDānam「手放す能力」がとても重要視されています。

手放す能力
今まで自分が執着していたもが私を幸せにしてくれない、そしてそれらを手放すことによって不必要な不安や恐怖心を乗り越えられることを知ったとき、人は様々な物事を手放すことが出来るようになります。それにはまず手放してみることが必要です。

Vedaの中でも有名なSāmavedaの一節に
Danena adānam tara
があります。誰もが持つ「これがなかったら私は不安。だから手放せない」というそのみみっちい性質をここではAdānamと呼び、それをtara、「乗り越える」方法が教えられています。その方法がDānena、「与えることによって」です。

私の恩師Swami Dayānada Sarasvati jiは、この「できないことを、やることによって克服する」、という例でいつも水泳の例を挙げてくれました。泳げないからといって泳がないで、芝生の上で平泳ぎの練習をしていてもいつまでたっても泳げるようにはなりません。泳げなくても、水に入って泳いでいかなくては泳げるようになれないのです。

また、fake it and make it「できないのであれば、できる気になってまずやってみる」、も有名な教えです。自分が与えられないのは自分が一番よく知っています。でも、そのみみっちい自分を素晴らしいと他人に自慢をすることも自分自身が受け入れることもできません。なみみっちい自分に気が付いたのであれば、歯を食いしばってでも、後悔が生まれるかもしれないけど、まずは与えることが出来る人になったつもりで手放してみる。そうすれば、「与えたものがなくても大丈夫」な、そして少しずつ成長する自分にたどり着けます。みみっちい自分を超えて。

何もなくても私は満ちている、その自分の本質をVedantaは教えてくれます。これはVedantaを勉強をしつつ、人として成長をして勉強をしていくことによって知れる事実ですが、日々の生活の中でも、少しづつ、「~が無くても大丈夫な自分」を知っていくと、その知識のためへの準備ができます。この準備がないまま勉強だけしていても、限りない幸せの源が自分の本質と教えてくれるVedantaの知識はきちんと理解ができないといわれています。そういった意味でもDānamは重要なYoga(目的にたどり着くための方法)です。

③ 好ましい状況を与えてくれるPuṇyaを得ることができる

DānamはDharmaに沿った行いなので、その結果を得ることができます。Dharmaに沿った行いの結果はPuṇya(プンニャ)と呼ばれ、後に自分に好ましい状況を与えてくれます。通常自分に好ましい状況が起こったとき、人はそれを「ついている、ラッキー」と言って喜ぶのですが、Vedaはこれらの幸運はすべてかつての自分の行いの結果だと教えています。そして、誰もが自由意思を駆使して、Dharmaに沿った選択をしていけば、稼げるものなのです。

逆にDharmaに反した行いをするとPāpa(パーパ)と呼ばれる、自分に好ましくない状況を引き起こす結果を得ます。

これらは目に見えるものではないので、いつ、どこでした行いがその結果を導いているのかは誰にもわかりませんが、PuṇyaとPāpaがあることを前提としたほうが、全てがしっくりきます。人が生まれながらに健康や家庭環境に違いが生まれるのはなぜでしょう?PuṇyaとPāpaの結果だからといえば納得がいきます。正しPuṇyaとPāpaで気を付けなくてはいけない点は、PuṇyaとPāpaがあるから今の、または現世の「私は~」と決めつけることではなく、全ての行いには結果があって、良い結果を得る=将来または来世を良いもにすることができるという点を心に留めることです。

先にも述べたように、Puṇyaは

誰もが自由意思を駆使して、Dharmaに沿った選択をしていけば、稼げるもの

なので、自分に好ましい状況があってほしいと願うのであれば、稼がない手はありません。自分の行いで利益を得られる人が多ければ多いほど、さらなるPuṇyaを得ることができるとも言われます。

他にも与えるときに考慮しなくてはいけない点があります(Bhagavad Gita 17章20節):
① 受け取る側が、受け取るに値しているのか→必要としている人、さらにはその人の幸せ(Artha, Kāma, Dharma, Mokṣa)につながるか。アルコール中毒の人がお酒を買うお金が必要だから、といってお金を恵んでも、その人の幸せにはつながらないので、この場合は正しいDānamと言うことはできません。
② 受け取る側に返済能力がない方が好ましい→返済されることや利子を計算して与えることは正しいDānamにはなりません。
③ 正しい状況や時間であるか→その人が与えられて迷惑ではない状況か

この受け取る側を考慮する点は、日本で流行っていた「断捨離」と異なる点です。断捨離では手放すことで満たされることを強調していると思いますが、自分が手放したものが誰の手元に、誰の役に立つかは考慮していません。Dānamは、自分が与えることによって役に立つ人が多ければ多いほどPuṇyaを得られます。

Puṇya欲しさにDānamをするのでは、②で挙げられている手放すことにならないのでは、と思う人がいるかもしれませんが、初めはPuṇya欲しさで与えていても全く問題はありません。VedaもPuṇyaを得るためにDharmaに沿った行いをしなさい、と初めのうちは推奨しています。特にこの体を手放した後での死後の世界が良いものになりますよ、といった奨励の仕方です。また、聖典を勉強していくには多大なPuṇyaが必要だと言われます。聖典を勉強していくにはどのようにしたらDharmaに沿って生きていけるかをまず初めに学ばないといけません。

Dānamによって自分の手の内にあるお金や時間、物などは離れていきますが、私たちがDānamで得られることは莫大です。要約をすると以下の3点:

自然との調和→ 環境が好ましい方向へと整う、心のギクシャクがなくなる
人としての成長→ 消費者から貢献者へとなれる。また、手放す訓練ができ、「何もなくても私は満ちている」という教えの準備ができる
Puṇyaが得られる→ 自分に好ましい状況を与えてくれる

Dharmaに沿った生き方は、Dānamのみでなく、その他Ahimsā(非暴力)Satyam(嘘をつかない)Sevāなどの方法で実行することができます。これらはすべてVeda・Vedantaで教えられています。

DānamとDakṣinaの違い

最後に、DānamとDakṣinaを混同している人が多いので、その違いについて言及したいと思います。

Vedantaを勉強するには必ず先生が必要です。その先生はただ単に学校(3年コースを含める)を終了して、学位などを持っていたり、インドにいた、または独学で本などを読んで学んだ人ではなく、きちんと先生から伝統的な方法で教えとその教え方を受け継いだ人です。その知識と知識の継承に対して敬意を表すために、伝統を守り教えを引き継いでいる先生に渡すお礼がDakṣinaです。クラスを行う先生個人に授業料として支払うというより、教えの継承自体への貢献です。勉強をする人が教えの継承に対して唯一できる貢献がDakṣinaなのです。

Dakṣinaにも手放すという行為が必要となりますが、Dānamのそれとは異なります。なぜなら、生徒にとってDakṣinaなしでは学びが完了したことにならない=Dakṣinaを渡さなかったらその教えが実を成さない、とも言われるからです。これは、お寺でPujāをした場合も同じです。Pujāをしてもらい、Pujāをしてくれた司祭さんにDakṣinaを渡さなければ、そのPujāの結果は得られない(Pujāをした意味がない)とも言われ、Pujāの一環としてあるのがDakṣinaです。ですので、先生はDakṣinaを受け取らなくてはいけないし、渡すことは学ぶ側の義務となります。義務で行うことは自由意思を駆使して行うこととは異なるので、DānamとDakṣinaは異なります。

また、Dakṣinaの金額は自分で教えの価値に相当する、無理のない額を決めます。すべての物事の値段が決まっているこの消費社会で、自分で価値を見出し、自分が出せる金額を決めるのは難しいかもしれませんが、それも教えの一環です。

沢山の人がVeda・Vedantaの勉強をして、Dānamを含むその教えを理解し、その知識の恩恵を得られますように。

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