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品川宿

 目が醒めたが床の中から雨戸の方を伺っても隙間の向こうはまだ暗く、おそらく開けてみてもまだ空は白んできていないのだろうと思われた。それでも躊躇せず起き上がったのは親方のもとに奉公に来て以来の習い性であって、この歳にしても変わんねぇものなんだな、と静かに苦笑する。目が醒めると左手の親指の爪を、人差し指の横っ腹に強く押し当てる。奉公に来てすぐ親方につねられたのを思い出して、起きることができるのだ。

 

 今日は品川宿まで出かける、そのことを思い出すと包吉は物憂い気分に囚われた。夜が明けきるより前に出ねばならないがそれが憂いのでは勿論ない。このたび品川宿に赴くのは十何年前かに納めた石燈籠を補修してほしいとの声がかかったのに応えたものだ。あの燈篭は満足できる出来のものであって、この仕事自体は是非ともやらせてもらいたいと思うものだった。ただ、あのお宮の前には「あれ」がある。「あれ」を改めて目の前にするのは気が重かった。

 

 そんなことは内心思っただけのことであって、あらかじめ同行を命じてあった倅の藤吉と荷物の内容を確認するとまだ夜が明けきらぬうちに京橋の工房を出立し海沿いを品川に向けて歩いていった。梅雨の時期のことで増上寺門前辺りでは降り出した。浜御殿を過ぎるとやがて笠に隠れてはいるが左手に海が広がるのを感じ(雨でなけりゃな)などと思う。辰の刻の鐘が聞こえる頃には品川宿に入り、はじめに尋ねるようきいていた青物問屋に挨拶し件の石灯籠のある諏訪明神の境内に案内を得た。

 

「龍が欠けたかと思ってたぜ。違ったな」

 包吉は少し距離をおいて灯籠の周りを歩きながら、振り向かずに倅に言った。燈籠に巻き付くように彫り上げた龍には細かい部分もあり、考えて彫りはしたもののもしかしたら欠けてしまうこともあるかもしれないと考えていた。実際に確かめに来てみると龍の彫りは無事であって、燈籠の足もとの角が欠けてどこかに行ってしまっていた。

「かけらは残ってねぇか」

 辺りをふたりで見渡すが、欠けたところにはまるような分かりやすい石は見つけられなかった。

「これは埋めますか。なら俺たちの仕事じゃねぇ気がしやす」

「おめえの言う通りだが、まぁ堪えろ。俺の思うように埋めさせてくれ」

「いや、親方が良いならやりやしょう。ひはんがあるわけじゃねえんで」

  そんなやりとりをすると包吉はもう一度燈籠を具に見回し始めた。欠けているのが足元の角二箇所だけかを確認する。

「屋根を組まなきゃなるめぇ。藤吉、お店に戻って材をお借りできねぇか伺ってきねぇ」

 倅が行ってしまうと、包吉はわざと目を逸らしていた「それ」に目をやった。自分が若い頃に彫った狛犬一対の背中がある。

 

「包吉、次の作り物を彫ってみねぇか。ちゃんと客からお銭が出る仕事だ」

 師匠である藤兵衛の声をありありと思い出した。腕に自信はあったがまだ若かった。十八だったか十九だったか。一も二もなくやらせてほしいと答えたのだった。

 

 親方の藤兵衛は自分でも充分に彫れる腕を持っていながら、いやその腕を持っていることをうまく使って、他の石工に自分の考えをうまく伝えて彫らせるというやり方を常としていた。石は藤兵衛自らが用意する。作意も持っていて、彫りを担当する石工とよく話して仕上げるまでの段取りを決めてことを進める。お銭は藤兵衛の方が多く取っているようであったが、それでいて彫工をやる職人は文句を言わず仕事をしているように見えていたのが若い包吉には不思議に思えて仕方がなかった。やがて、藤兵衛が金の話を含めた注文元とのやりとり、石材の準備、他の職人との仁義といったしち面倒臭いところを全て取り仕切っており、そのため彫工達は彫ることを専ら考えれば良くなっているということが金の多寡にも代え難いほどにやり易い、と感じていることに気がつくようになっていた。

 

 藤兵衛から注文の概要を聞いて、親方は何故これを石田屋のような実績のある石工に出さずに自分の弟子にやらせようとするのか内心不思議に思った。狛犬一対を彫って納めるというものであり、これまではたから見ている限りにおいては同じような仕事は他の石工と組んでやっていたからだった。それに、藤兵衛はあまり細かいところについて指示をせず、「お前が思う、ちょっと他所とは違う狛犬、てぇのを彫ってみろ」とだけ言うのだった。狛犬が子供とおわすなんてぇのは、子宝に恵まれる霊験がありそうじゃねぇか、という話しをどこで聞いたのだったろう。身近に見に行ける狛犬を見てまわり、その姿を写しつつ足元に子供の姿を彫るようにしたのだった。この大きさのものをひとりで彫るのは初めてで、夢中だった。

 

 親方からは最低限の助言をところどころでもらっていて、彫り終えたと思って親方に見せた時もしばらく狛犬を四方からみてまわったあとにひと言「これで良いだろう」とだけ言われただけだった。最後にどこに駄目を出されるのだろうかと嫌な汗をかいて立っていたのだが拍子抜けしたのを覚えている。狛犬は無事に納められたのだが、そのあとに藤兵衛が組んでいた石田屋の狛犬を見ることがあって叩き落されるよな気分を味わうこととなった。

 

(全然違うじゃねぇか)

 自分の彫った狛犬も、これまでのものを参考にしながら、新しいかたちを作ったつもりだった。親方が認めてくれたとおもったことで、それが裏付けられたような気分でいたのだった。しかし、目の前の石田屋の彫り様が自分のそれと全然違うことは、ひと通り同じ様な大きさの像を彫った包吉にははっきりと分かった。たて髪や尾の彫り方が俺のは全然薄っぺらい。親方の目からしたら俺の彫った狛犬はじゅうぶんな出来じゃなかったはずだが何故親方は何も言わずあれを納めてしまったのか。

 

 それを藤兵衛に確認するだけの気力を包吉は持ち合わせておらず、もとと変わらぬ修業の日々に舞い戻るしかなかった。ただ、それだけでは終わらせなかった。やがて包吉は暇と石をみつけては自分の考えで試し彫りをするようになった。犬、猫、蛙といった身の回りにあるものをよく見ては形にするということを続けるようになった。あの狛犬で彫りきれなかったたて髮の、その部分だけを手がけてもみた。石田屋などよその石屋に遣いを言いつけられると先方でよく愛想をいい顔を覚えてもらうようこころがけた。少しでもながく先方にとどまって、その技や道具を盗み見る時間をとっても誰からも咎め立てされないようにするためだった。藤兵衛から再度「包吉、今度の仕事をやってみるか」と声をかけられた時には五年近くのときが過ぎていた。

 

 それは毘沙門堂前の寅の像を新しくして奉納したいという仕事で、引き受けたのは前と同じだったが低く「へぇ」と答えた時の心持ちは前とは大きく違っていたのを覚えている。親方に造り方について細かく手前から聞き質したこと、寅の屏風絵や前の像などをじっくりと見て回ったこと、手前なりの工夫を親方に伝えたうえで取りかかったところも前とは違っていただろう。仕上がった寅の奉納の際には包吉も親方に同行したが、帰りに親方は包吉に何を言うでもなかったが至極機嫌が良かっものだった。そして、この後藤兵衛がよその石屋と組むことはぐっと減り、多くの仕事を包吉に彫らせるようになった。

 

 藤吉がお店の奉公人と木材と縄を持って戻ってきたのに気がついて包吉は我に返った。木材の長さをみてすぐに簡単な小屋を手分けして組む。そして倅に周りから砂利を集めてくるように言いつけ、自分は漆喰を練り始めた。

 

 この灯籠は丁度三十になった頃に親方と組んだ仕事で彫ったものだ。仏師が彫るような龍を灯籠にまとわせて彫っている。そういえばこの灯籠を納めたあとも親方は機嫌が良かった。寅の時から何年も経っていたが同じように嬉しかった。ついに一度もきちんときいてみたことはなかったのだが、最初の狛犬は弟子に最初から最後までをやらせて自分で気づかせる心算だったのだろう、そして品川宿の奉納元はあれくらいの出来の狛犬でも自分の名前で納めれば文句を言わないことまで見越していたのだろう、ということが分かるようになっていた。その後の包吉の振る舞いも親方は見ていて、だからもう一度やらせてくれたのだということも身に沁みていた。

 

 その恩があったから藤兵衛の元を離れずにやってきたし、ずっと包吉として石工を続ける心算でやってきた。それだけに先の秋口に親方に呼ばれて「藤兵衛の名前を継いでくれねぇか」と言われた時には驚くというよりも内心狼狽した。「俺の後継ぎなんざいらねぇよ、縁側で猫抱いとけってのかよ」という啖呵を何度となく聞いてきたからだ。隠居するなんて柄じゃねえだろうよ、とつい声が大きくなった。はっきりとは聞き出せなかったが、おかみさんが先に逝ったのが応えているように窺え、何よりも親方の顔の皺、その老けように何か突きつけられたような気持ちになって途方にくれるのを押し隠していた。えらの張った四角い精悍な顔立ちも、小僧の俺を叱りつけてつねりあげた時のあの眼も、もう昔話になってしまったんだということに今更ながら気がつかされた。

 

 なんとかその日は藤兵衛をなだめてまた来た時に話しをしよう、と言って帰ったのが最後になった。藤兵衛がコロリにやられたと聞いて慌てて見舞った時にはもう話せるような容態ではなく、あっという間に身罷ったからだ。葬式を出し忌明けしてから、包吉は組合の要人のもとを訪れては自分が藤兵衛を襲名することを根回しして回った。裏で何を言われているか分かったものではなかったが表立って反対するものはおらず、派手なお披露目など何もないが包吉は次の仕事から藤兵衛の名で仕事を受けことを決め必要な挨拶は済ませている。

 

 品川で一宿して翌朝、埋めたところが安定したのを確認すると包吉は二十年近く前に自分が彫った「天保四卯年正月」の文字の左に鑿を入れこの度修復年を入れた。もう片方の灯籠には親方藤兵衛と自分の銘が刻んである。これが最後の親方と俺と組んでの仕事となった、そう心のうちでつぶやいた。親方との最初の仕事である狛犬には目もくれず、包吉は倅と連れ立って修復が終わったことの報告に青物問屋へと向かった。

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 南品川諏訪神社は京急電鉄本線青物横丁駅のほど近く、旧東海道の道筋から路地のように細い参道を入ったところに鎮座している。狛犬が一対奉納されてあり、阿吽とも子供を連れている。台座の劣化、表面の剥落が激しく奉納者もほとんど読めず、石工の名などは全く読み取れない。「天保二辛卯二月吉日」というこの狛犬が納められた日と思われる刻字だけが辛うじて読み取れる。西暦でいうと一八三一年、千住神社の阿吽とも子連れの狛犬奉献の翌年でありほぼ同じ時期に彫られたものと思しい。この狛犬が京橋の石工包吉の最若年期の作品である、などという話は彼の一連の作品を知っている方からすれば一蹴される妄説であろうかと思う。どうしてこんな作り話をでっち上げることになったのか、という言い訳から始めなければならない。

 

 この狛犬を最初に見た時の私の感想は「なんだか中途半端だ」というものだった。千住神社の立体的で鋭い造作に比べてたてがみや尾の彫り方が二次元的で厚みがく、ぎこちない。身体のバランスをみると頭を小さくしすぎているように思える。阿吽とも顔が少し欠損しているようで、完成した姿であるならばまた違った印象があるかもしれないがやはり物足りない印象を構成する一部となっていた。

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 しかし一方で、同時代の狛犬を見ているイコンを連想させるような定型的な、あるいは稚拙な形象の狛犬の方が多い。一例を挙げると南品川諏訪神社のほど近く、目黒川を渡った向こうに鎮座する寄木神社の三対ある狛犬のうち一番古い狛犬は文政十一年(一八二七)と南品川諏訪神社の狛犬の四年前となっているが、同時期の狛犬として見ると寄木神社の方がだいぶ素朴なつくりだという印象を受ける。

 

 江戸時代も後期に入ったこの時期は石工の中にも形を破って様々な表現を試みるものが出てきているように思えるのだが、その中でも牛御前(現在の牛嶋神社)や千住神社の狛犬はその中で突出した例外であり故にその後の作品に影響を与えたのではないかというのが私の考えである。石工の力量がそれぞれだからこの時期以降に色々な作品が残されている、というよりは牛御前の狛犬を彫った庄次郎と言う石工が革新者として抜きん出ていたととらえるべきではないか。そして南品川諏訪神社の狛犬は庄次郎ほど革新的ではないが同時期の他の狛犬よりも写実的な表現を目指そうとしていて、目指すところへの途上であったというような印象を受ける。私の「中途半端だ」という感想はこのようなところからきている。

 

 庄次郎の次に続いたは誰だろうかと考えると、京橋太刀賣の藤兵衛であろうと私は評価している。活動時期が近接しているので並走者であったかもしれず、また実は藤兵衛の方が先駆者だった可能性もあり得るのだがここでは残っている刻字された年月の順で庄次郎が先だとする。牛の御前の狛犬の六ヶ月後、文政十年八月の刻字がある狛犬が越ヶ谷の久伊豆神社にあり「江戸京橋太刀賣 石工藤兵衛 彫工永熊」との銘が彫られている。また流山の諏訪神社に文政十三年(一八三〇)、「京橋太刀賣 石工藤兵ヱ 獅子細工人石田屋知卜」の刻字がある狛犬がある。いずれも包吉の名前が刻字に現れるより前の時期だが、この二作品ともとても出来が良い。特に尾の表現がとても美しく、台座から垂れ下がる表現がとても柔らかい。剛の庄次郎に対し柔の藤兵衛と並び立てて良いような作品を残している。包吉が修行時代につかいに行かされた石田屋というのは諏訪神社の「獅子細工人石田屋知卜」だとおもっていただいて良い。高輪神社の同じ名前で石彫のレリーフが奉納されているが、そこでは「紅葉川住」とある。紅葉川は八重洲通りの東京駅から首都高速道路の宝町出入り口辺りまでにかつてあった運河で、藤兵衛や包吉が工房を構えた京橋とは目と鼻の先である。

 

 包吉の名前が最初に現れて残っているのは広尾天現寺、つまり毘沙門堂に安置されている石彫の一対の寅の像だが、そのあとには狛犬を何体も彫っている。藤兵衛の影響下にあったと考えられる狛犬でも。永熊や石田屋知卜の彫ったものと包吉のものを見比べると包吉の作品の方が少しだけ、硬さがみられる。親方である藤兵衛が指向したと思われる流麗な表現を求めながらも自らのやり方として少し固めのパターン化された彫線を選びとったようにおもわれる。

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 ここに示した写真は赤坂氷川神社の鳥居前に置かれている包吉が彫った狛犬で、阿吽とも子連れの姿をしているものだ。写実性はありながらも尾の流れる表現はデザイン化されているように思える。頭を二頭身半ぐらいの大きめに彫っていて、南品川諏訪神社の狛犬が頭を小さめに彫っているのとかなり違いがある。また子供については赤坂氷川神社の方がずっと写実性を感じられることから、親を硬めに彫ってはいるが敢えてそのような彫り方を取ったことがうかがえる。これらの違いを見ると南品川諏訪神社の狛犬も包吉の作だというの説はちょっと違うのではないかと感じるのが自然なのだが、そこを敢えてお話しをつくったと考えて読んでいただきたい。

 

 藤兵衛と包吉については資料などは残っていないが、その銘を刻んだ作品は複数残されていてそこからその生涯を推測することはできる。日本参道狛犬研究会という団体があり、その理事である山田敏春さんは京橋の藤兵衛という石工は三代に渡って継がれた名跡であったろうということを調査のうえまとめられている。それを改めて書き出してみると以下のようになる。

 

1. 初代藤兵衛

 文政十年(一八二七)以前〜万延元年(一八六〇)ごろまで。「京橋太刀賣 藤兵衛」の銘を使用している。本人の仕事の場合は分銅印を刻んでいる。他の石工との仕事では分銅印は無く、その石工の銘を入れている。包吉の場合は名前の後ろに花押を彫っている。

2. 二代藤兵衛

 万延元年(一八六〇)ごろ〜慶応二年(一八六六)ごろまで。「京橋太刀賣 藤兵衛」の後ろに包吉と同じ花押を彫る銘を使用している。つまり包吉そのひとと推測される。なお包吉の訓みは「かねきち」か「ほうきち」が考えられる。

3. 三代藤兵衛

 慶応三年(一八六六)ごろ〜明治二十三年(一八九〇)ごろまで。「京橋太刀賣 藤兵衛」「京橋南紺屋町 木村藤兵衛」などの銘を使用し花押は無い。

 

 確かに花押のある銘を挟んで明確に分かれているように見えていて、概ね正鵠を得た説を述べておられると私も考えている。包吉は初代に弟子として入り信頼を得た、三代は包吉の子供が継いだ、という風にここでは描いている。そしてこの灯籠の修復が藤兵衛を名乗る前の最後の仕事であった、とした。


 なお太刀賣というのは古地図にも載っていない地名だが『御府内備考』には記載があって、南紺屋町の別の呼び名であるように書かれている。現在の有楽町線銀座一丁目駅の北側、首都高速の下にかつて掘られていた京橋川の比丘尼橋、紺屋橋南岸辺りを指しており、藤兵衛が三代続いたとして三代に渡りこの南紺屋町の地に工房を構えていたと思しい。俳人鈴木真砂女さんが小料理屋卯波を開いておられたのもこの地で、随筆集『銀座に生きる』の中で店のある路地に鎮座する幸稲荷が「かつては太刀売稲荷と呼ばれた」ことを書かれており、昭和になってもまだ太刀賣という地名の残り香があったことがうかがえる。

 

 少し話が逸れた。子連れ狛犬の話に戻すと、包吉の名を刻んだ狛犬の中で阿吽とも子連れで彫った狛犬が五対残っている。

 

 最初のものが先に写真を示した赤坂氷川神社のもので弘化三年(一八四六)、南品川諏訪神社に石灯籠を納めた三年後の作品になる。

 二対目が千葉館山の八雲神社の狛犬で翌弘化四年。

 三対目が千葉南房総市千倉町というところに鎮座する神明神社で嘉永五年(一八五二)年。

 四対目が埼玉加須の千方神社で同じ嘉永五年。

 五対目が横須賀の東叶神社、奉献年が刻まれていない。

 

 東叶神社は製作時期がはっきりわからないがおそらくやはり同時期のもので、幕末のこの十年以内の限られた時期に集中して子連れの構図を採用していたようである。包吉の三十歳台から四十歳台にかけての時期だろうと考えているがどれも良い作品である。これらの作品たちと南品川諏訪神社の狛犬とは十五年離れており、そのことも南品川は別の石工の仕事だろうと普通なら判断する材料となるところである。それをここでは、包吉がもう一度あの構図で彫ろうと考えるまで十五年の経験を要したのではないか、と空想を巡らせている。

 

 また私は初代藤兵衛と包吉はどちらも牛の御前の庄次郎の狛犬は見て影響を受けていただろうと考えている。本人達に聞いたらそれは否定するのかもしれないが、良く言えば参考に、悪く言えば盗むところがあったのではないだろうか。両者の作品の、鬣の渦を立体的に強調して彫る表現をみるとどうしてもそう考えてしまう。千住宿の狛犬について見たり聞いていたりしたかというとちょっと分からず、阿吽とも子連れという形まで参考にしたかまではなんとも言えない。また、赤坂氷川神社の狛犬を彫るまでにも何人かの石工が阿吽とも子連れの狛犬を彫っているのだがいずれも江戸の朱引の外か、その線上辺りのことであってそれらを藤兵衛達を見たり知ったりしていたかはさらに分からない。

 

 いずれにせよ南品川諏訪神社に奉納されている石灯籠に天保十四卯年正月/安政六未六月修復、という奉献年月、そして藤兵衛と包吉の銘が刻まれていること以外は私の創作である。

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『関東子連れ狛犬の系譜』シリーズは少しづつ、今書いているものがどこかに響けばと願いつつ書いています。