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(進捗あります)次話の目処が立ちました

 2ヶ月あけて進捗ありますも無いものだがあと一週間前後で、書いていた次話の公開できそうなところまできた。優先すべき家庭事情のうちひとつは完了、ひとつは続いているがいったん収まったような事態となっており、書く時間が取れるようになった。COVID-19 感染拡大に伴い外出が買い物と散歩だけになってからは読む時間と書く時間が少し増やせている。確かめに行きたい狛犬はいくつもあるのだがそれは全て我慢して、今まで調べた資料だけで書くのだという決めができ迷いがなくなったことで却って前に進んだ。

 丁度2ヶ月前に最後に見に言ったのが千石駅の近くにある一行院という寺院にある、冒頭の写真の狛犬だった。巣鴨・大塚の方に用事があって出かけたついでに足を運んだ。簸川神社に立ち寄って野村保泉の狛犬も見てきたが主は一行院だった。思えばこの時はまだ COVID-19 よりもインフルエンザの方を気にしていたのだが二ヶ月で大きく事態が変わってしまった。

 一行院の墓地には徳本(とくほん)行者の墓所がある。「江戸後期の浄土宗の僧侶」というのが人名辞典的な説明になるのだろうが独学と独自の念仏修行で名を成した行者で新興宗教の教祖といった方がぴったりくるかもしれない。この一行院に住して「布教」を行い文政元年に没している。

 その墓所の前に狛犬が一体だけ据えられている。元々阿吽で別の場所に奉納されていたものがなんらかの経緯でここに据えられたのかもしれない。この狛犬の台座に「石工 鈴木保教」と刻まれている。『礫川』で牛天神の狛犬を彫った石工の名である。年月が残っておらず同じ石工なのか同じ号を名乗った別の石工かは分からない。牛天神の狛犬と比べると筋肉の瘤の表現には共通する部分もあるが耳の形、尾の装飾的な誇張など、違う印象を受ける部分も多い。鈴木保教についてはあと二箇所にその銘がある石像があるのだが、それらも見てまた分かることがあるのかもしれない。

 一行院には無縁仏が祀られている場所がある。寺院によっては片隅に積み上げられているだけ、といったところもあるが一行院のそれはきちんと場所を取って明るい印象の祭り方になっていた。そして前には狛犬が一対。これももしかしたら別の場所に奉納されたのが経緯あって一行院に来たのかもしれない。これが徳本行者の求めたところか、跡を継いだ御住職のいずれかの好むところか興味あるところである。

『関東子連れ狛犬の系譜』シリーズは少しづつ、今書いているものがどこかに響けばと願いつつ書いています。