新頌麗陽

[SS合評] 経済カースト起源についての一考察

 人類が長い文明社会の歴史を重ねてきたのちにもあらゆる差別が克服されずにこんにちまで遺っていることは驚くべきことだ。我々は長い間それが人権侵害に該当することを認識できない期間を経たのち人権問題というものを認識したのだが、その後問題を克服しようと試みてはまた新たな問題を発見するというようなことを何度も繰り返して今に至っている。

 そうした人権問題についてはご存知のように様々な論点からの大著労作が発表されておりここでは私はそれらを紹介すれば事足りるような状況にある。だがここの主題はそこにはない。私のこの稿における興味はアジアの長大な歴史のなかで東京といういち地域でどのような時間が流れたのかということを地誌的に捉えてみたいというところにある。東京といえばかつては一国の首都としての機能を担った時代が長くあったのは知られているところである。当然ながらこの土地は知識や思惟が集積するセンターとしての役割も担っていた時期があった。残念ながら幾度かの甚大災害とサイバーテロ行為はその集積のかなりの部分を毀損してしまい全く喪われてしまったものも少なくない。ネットワークで共有されていたものはサイバーテロリズム行為のダメージを受けたことで地域に関係なく消失したものがありその内容が全く確認できないものがある。一方で災害、特に二十六世紀の隕石群飛来の影響は特に甚大で書籍そのものだけでなく書かれた地域自体をも破壊してしまった。東京にあった National Diet Library ※1 については書籍そのものと書籍の内容をデジタル化したデータの両方を保持していたとされているがその両方について時期こそ違うがそれぞれ深刻な被害を受けることとなった。現在我々にとって典拠を失った不確かな歴史的社会的な言説がいくつかありその正当性の検証について新しい資料の発見が待たれるような学問分野が複数ある。

 例えば文化人類学における言説のひとつに「東京を中心とした地域においては他のどのような宗教文化にも地域文化にも属さない優れた文化がかつて存在した」という仮説がある。隕石群災害の甚大な被害をうけて東京に集中していたという政治的経済的文化的な機能は様々な場所に分散されることとなった。経済的な集中については東京において金融市場が運営されていたことは分かっており、また多くの営利企業が本拠を東京においていたことが資料上確認できていることから間違いなかったと判断できる。政治的には十七世紀から二十六世紀にかけては首都が置かれていたことは分かっており、ここを首都とした政府についてはこれといって特筆するほど優れた政治史上の事跡は記録されていないながらも中心地ではあったと言い切ることができる。では文化的な側面ではどうか。

 一説にはかつて存在したという文化の特性は「多様性を是とする」「他者への配慮を美徳とする」というような特性に象徴されるものであったと言われる。現実にいま東アジアを見回していわゆる「思いやり」が自然に交わされるような社会というものは存在しないではない。しかしそれは文化と呼べるほどの一貫性や普遍性があるかというと甚だ疑問である。一見万人に寛容な社会であるようにみえて裏を返せば不文律が存在しその不文律が通用する相手にしか寛容さは行使されないということがみてとれる。かつその不文律の内容について異論をみとめないか、不文律の存在を隠して信義誠実に則っているように装うことが一般的でそれが特に優れた文化性の末裔であるとは認められない。よってかつて存在したという「独自性の高い優れた文化」の実在についても後世の創作ではないのかという疑いを持たざるを得ない。

「独自性の高い優れた文化」への疑念は現在も我々の眼前に在る人権問題から遡ってみるとより確かなものとなってくる。「多様性を是とする」のだから東アジアにおいては人権問題の改善は著しく差別は無くなっていた……というような言説まで唱えられているが論じるにも値しない。東アジア内でも、いや寧ろ東アジア内にこそ、民族間の差別感情があることは現在の状況をみても明らかであって様々な植民地化を歴史上繰り返していることを鑑みても千年前に差別が無い社会があったと主張するのはいかに資料の逸失が時代によりあったとしても無理がある。身体障害者や様々な性の形態における少数者然り。経済カーストについて然り。

 経済カーストについては二十一世紀頃より現在我々が知っているような形で顕在化し始めたと推測されている。より古い時代からの宗教的身分制度から出た差別と峻別できるものかどうか分かっていない。私はいくつかの理由から、おそらくは別のものとして生まれ、別のものとして存在したのであろうと推測している。残念なことに東アジアにおける考証資料はかなりの部分が失われてしまっていることは先に述べた通りだ。少ない例を挙げると『One Thousand Years of Japanese Roma's History』※2 は経済カースト以前の人権問題史についてタカハシサダキが著したものだが原著は残されておらずヨーロッパ文化圏の研究者による著作への引用でのみ我々は読むことができる。引用に遺されている部分によると東アジアにおける特定の職業についているグループへの差別は仏教の僧侶及び帰依者により作られ長きに渡り被差別者への精神的労苦を強いることになったことが読み取れる。一方でそのあとに生じた経済カーストは特定の宗教が関与したというよりはいくつかの原因が複合的に噛み合って現れた現象が事後に社会から追認されたものと思われる。あえて言えば自文化を至上視するというある種の原理主義的宗教が作ったと皮肉に言えるのかもしれない。

 残念ながら経済カーストの一千年についてはタカハシのように筆力と情熱を持ち合わせた論述をするものを持ち得なかった。あるいは居たのかもしれないがその業績は失われてしまった。よって我々は断片的な情報から経済カーストがこの世に生まれるに至る経緯を推測するしかない。経済カーストが追認されたのは労働法における国際協約から乖離した誤った改正がされたことと、教育行政において無為に階級化が看過されたことが重なったことが大きかったと言われている。これは国際労働会議における議論の結果が遺されていることから推測が可能となっている。さらに遡って東アジアにおいて経済格差があたかも身分差別のように扱われ始めた時期についてはどうだろうか。経済カーストにおいては教育や職種による差別であって住居地区によって分けられるということはなかった。その差別は個人個人の管理データベース上の属性によって行われた。生活の節目において管理データベースが参照され「この学校にあなたは入学できない」「この建物にあなたは住めない」という差別が宣告される。制度として存在したものではなく慣習としてあったものであるため差別は見えにくいものとなっていた。この管理データベースが幾多のサイバーテロリズム行為によるデータ破壊を受けながらデータ漏えいによって拾われ生き延びているのはなんとも皮肉なことだが管理データベースの生まれた経緯、更には管理データベースに値として反映し得るような差が社会に生じ得た経緯については遺されている情報が少なく、今後の研究調査が待たれる分野となっている。

 今後研究が進められるであろう資料のひとつとして数年前に発掘された「椋文書」と呼ばれるものがある。雑多な著作と情報のクリップ群からなっているもので小説、随筆、取材記事から詩歌に到るまで様々な文章、画像、動画が含まれている。「椋」は文書の著者にして編集主体となった人物の姓だが特定の個人であったのか、あるいは何人かによって書かれ編集されたのかについては意見が分かれている。ただ「椋」という漢字が編集主体となった人物の姓であり「ムクノキ」という訓みであったことは文書自身に記されている。アーカイブされた対象にはあまり統一性がみられないのだが一部のテーマについては掘り下げられており特定の個人の嗜好が背後にあったことがうかがえる。掘り下げられたテーマのひとつに人権問題があり、書かれた時代は経済カーストの萌芽がみられたと考えられる二十一世紀であることに私は注目している。

 この「椋文書」だが発掘されたのは東アジアにおいても辺境部というべき場所であった。これは椋という一族の拠点であったと思しい土地が選ばれており方法もネットとは切り離された状態で保存されていた。サイバーテロリズム行為から免れたことは勿論、この土地が二十六世紀よりあとに国家組織の核の一部が移された福岡からも、大陸の政治的ハブからも適度に離れていたことが良い方に働き物理的なテロリズム行為の被害からも免れたのである。このように遺すことについてはかなりの気を配ったことがうかがわれ偏執病的な気質さえ感じられる。紙へ印刷したものとネットワークとは切り離された状態でのデータがアーカイブして保存されており、かつデータに関しては保存形式について印刷されたものに記載されていた。このようなメタデータはおそらく保存当時においては当たり前の情報であったはずだがそれをあえて記載している。結果的にこのアーカイブ内容のカタログが私も含めた一部の研究者の興味を惹き分析が行われることとなった。「椋文書」という呼称は保存された場所に遺っていた口伝えから発掘者が命名したものである。

「椋文書」に経済カーストの兆候と思われる事象が記録されたのは次のような経緯による。

 自らが教育を受けるにあたってかかった負債を返済しきれず貧困化するような事例が身近に出るのではないか。その結果として子の世代以降も充分な教育は受けることが難しくなり、ひいては就く職業も限定されることによって貧困層が固定化するようなことが自分達に起きないだろうか。そのような恐れを椋は抱いていたらしい。脆弱な社会福祉制度と常軌を逸したな教育費用の高騰が椋の眼前にあったのである。

 椋は当時の政府において立法機関と行政機関がそれぞれ担うべき役割を果たしていないという捉え方をしていた。行政機関が社会福祉が本来届くべきひとに届くような運用になっていない、立法機関が教育費用の公負担などを適切に設計せず教育機関の利益偏重を制御できていない、というような批判を繰り返し書いている。椋は性悪説的な考えの持ち主であったと思しく人間は仕組みが整っていればその仕組みのなかでより良く振舞うことができる、自由を与えられて正しく行動出来るような強い人間は一部に限られている、だから仕組みをつくる立法機関や仕組みを運用する行政機関は適切に仕事をしなければならない……というような理屈を書いている。あらゆる組織において少しでも目を離せば硬直化し縦割り化し優先順位を見失うというのは有史以来繰り返されてきたことであって、椋の主張を読んでいるといつの時代も変わらないという印象を持つ。

 私としては地域性が見てとれるような情報を欲しており東アジアのなかの限られた地域にあった慣習が貧困層の分断を後押しすることがなかったかという興味をもってみているのだが椋はそういう観点をあえて排除しているようにとれる。椋は柔軟性に欠ける性格の持ち主であったのかもしれない。といって「椋文書」が期待はずれの資料であるかというとそうではなく椋の仮説が不幸にも現実化しはじめたその実例を書きとめている。それなりのしつこさでもって書かれているため量も申し分ない。書くこと以外に椋が何かしらの行動を現実に起こしていたのかは分からない。傍観者に留まったのかもしれず、より積極的に活動したが結果を得ず差別が進行するのを見送ったのかもしれない。椋のみた貧困層の形成は人権問題として経済カーストと呼ばれるようになり国際社会においても問題視されるようになるのである。


※1 National Diet Library
 二十六世紀まで東京に存在した国会議事堂のそばにあった日本国立図書館。複数ある国立図書館の中枢であり日本語で書かれた書籍及びそのデータ資料のアーカイブは当時最大規模であったが現存しない。

※2『One Thousand Years of Japanese Roma's History』
「椋文書」内では『被差別部落一千年史』、著者は「高橋貞樹」との記載がある。他言語に訳されたものでも 『Hisabetsu Buraku Issennenshi』と記載しているものもありおそらく合致すると思われるがもとの言語での情報が他にはみつかっておらず『椋文書』が初出であるため今後の調査を要する状況にある。


 ……ここまで書いていったん手をとめた。このあとの段階については別の資料を引用したい。その前に「椋文書」をもう少し読み込んで椋が書き残した実例のうち適切なものを挿入するよう改稿しておきたいが続きは明日にしよう。

 ところで「椋文書」が発掘され注目を得るようになったきっかけはテキストではない。データ化されたもののうち印刷されていないもの、動画データが分析の結果再生に成功したことによるものだった。この時代の動画は希少だが特に再生に情熱が注がれたのは一部ポルノ映像が含まれていたからだと聞いている。復活されたポルノ映像をみたが、いつの時代もこういったもののシナリオ設定については同じようなところに行きつくらしいという感想を持った。おそらく椋の趣味だったのだろうが墓場に持って行かずアーカイブに含めて遺そうとしたのはどういうつもりだったのだろうか。気に入ったあまり文化財となり得るとでも思い込んだのかもしれない。実際当たらずといえども遠からずの状況になっているわけだが。今回の原稿の主旨を損ねない書きようにしてポルノ動画の経緯までどこかに書き加えてみても良いだろうか。

 扉に使用するイメージも「椋文書」から採用することとした。「椋文書」のテキストにはアーカイブされた内容について、使用する場合は私物化せず共有しろとわざわざ明記している部分があるのだ。もちろん著作物権利法において一千年前の著作物の権利などとうに公共の利益に供するべきものなのだが、発掘者や他の研究者に気兼ねなく使えることはありがたい。女人をモデルにした彫刻のイメージを選んだ。天を仰ぐポーズがなんとはなしに差別の軛から解放される様のようで似つかわしく思えたのだ。この彫刻も今は喪われて無いものなのだろうか。

『関東子連れ狛犬の系譜』シリーズは少しづつ、今書いているものがどこかに響けばと願いつつ書いています。