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私の現代詩2.0宣言「私は今も中身の無いこどもな異邦人です」

読書人口はひと昔前とは違いかなり少ないと実感する。知人たちの様子からすれば10%いかないとみる。多くの人は日々の営みに疲れ文字を目で追い思考する忍耐が辛くて仕方がないのではなかろうか。

文字を打って創出するのがメインのSNSさえも、その思考の労力に疲れてしまうものではと察する。ところが、詩を趣味にされてる人々のコミュニティに身を置くと、実感する読書人口10%が70%になる。倍率が微妙かと思われるだろう。つまり詩を書くが本はあまり読まないという人が多いように見受ける。というか、私がその30%のうちの1人だ。

とはいっても、会社の同僚からすれば私は読書家だという。それほどまでに詩を趣味とされる方々のうちの読書を「しっかりと」されている人の読書量は驚異的である。

詩を趣味として既に3年が経過するが、この間に知った新たな作家や哲学用語の密度たるや、小学校の時に覚えた漢字の量にも匹敵する。この間に覚えた作家の名言や、哲学を基礎としてnoteの記事を書けば、思わぬところで人気を得るのかもしれないが、読書量が過大な人らは、そのテキストにある強度と密度を見抜かれ、私の上滑りする記事など、失笑ものだろう。

ところが、読書から多くの博識を蓄積された人には穴があるように思え(いや、穴など無い人もいる)つまり、呼び方を変えればその人達はオタクとも言えて、オタクは短文による「本質を断定でズバリ言う」ことが苦手な傾向にある筈だ。なぜならば、オタクが嫌う会話とは「知らないこと、間違うことによるマウント負け」なのだから。

誤解されがちであるけれども、Twitterは短文であるため、オタクには不利な空間だったりする。オタクの短文は意味不明が多い。しかも、それを美徳とするのだから、つまり、ヤバイ奴らである。彼らは情念を嫌う。情念などという抽象的であって、しかも、コンプレックスを抱いてしまう言葉でもあるわけで。情念が不条理を超えて至る心情であることを名作「異邦人」に垣間見えたことを述べ、ささやかに、反抗的人間としてのマラソンのスタートを切りたい。

ムルソーの在り方、ムルソーの経過は無自覚から自覚への変遷がある。Twitterという場にその変化を置き換えてみると、思わぬ示唆を読めてしまう。つまり善良が無自覚に流されている場では黙ることのみが自覚をする営みなのだ。黙ることが出来る人間は博識な人々よりも優る。つまりは、そのマウンティングという不毛な場に立つことを選ばない。つまり、死を選択すること。
ムルソーが非現実から現実へと覚醒する意思は自覚された死である。文学とは黙ること。何を自覚して書くかである。カミュはそれを知悉している。そして、最後まで読んでくれたきみ。
死を選んでも、いや、選んだふりでもいいから黙ってダンスを続けよう。中身なんていらん。中身なんて永久に拒否だ。文学など捨ててマグマのダンスを永久に止めるな。

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