授業のはなし

「授業」とは、二十代後半になってから通い出した大学院で改めて出会った。大学院では学部時代に気になりながらもできなかったこと、つまり研究とか論文とかをするつもりだったが、入ってみたら毎日面白い授業、授業との出会いだった。

良い授業は犬との散歩に似ていると思う。

犬との散歩は、言葉は使わない。変わる季節の中で何度も何度も同じ場所を行き来するうちに、ある日、犬が以前、リスを見つけた木の下で立ち止まったりする。

犬は話さないから、なぜ立ち止まったか本人に確認してみることはできないけれども、木の枝を注視する横顔から、こちらにもリスの予感がしてくる。あ、もしかして今、あのこと考えてるのか。そういえばそんなこともあったな。そんな積み重ねで、言葉なしに、犬と会話できるようになっていく(ような気がする)。新しい言語の習得。自分で観察して自分で気づく。自分のモノになっていく感じがする。知っていることになっていく。

大学院での授業は、毎回そんな連続だった。今回、なぜこの史料を読むことになっているのか?新しい用語ばかりとの出会いは推測の連続。前もって調べてきてもどんどんそれを使って話したり書いたりしてみなければならない。使いこなせてるのか?これ。間違ってないかこわごわと出発しつつも、あ、でもだんだん知ってる言葉になってきた。というような感じ。

もちろん思い返せば大学院以前も学校には恵まれて印象深い授業はいくつも思い浮かぶ。が、大学院ではじめてわたしはすぐに言い当てられない漠然とした何かに辛抱強く向き合ってみて、はじめは勘違いでもだんだんと授業が扱う対象の、それらの複雑さを含めて「知る」までいかなくても「入り口に立つ」くらいが出来たのだとおもう。そんな授業と出会わせてくれた先生方に本当に感謝している。

そんな経験が、現在自分も校種は違えど教職に就いている大きなモチベーションである。

犬との散歩、一回目は当然何もわからない。不快なことのほうが多いかもしれない。けど、だんだんその犬や、歩いてる土地や、季節が見えてくる。すぐには見えない。関係ないことばかりさせられているように感じるかもしれない。

けど、ちょっと調べたらすぐわかるようなそんな単純なことばかりではないからこそ、そのぐらい遠回りして「知る」とか何かの「入り口に立つ」ことをしてみることに価値があると思う。何も知らないでいるよりも善いことだと思う。必ずしもそれが提供できるとは奢らないけど、いくつもの優れた授業に居たことは私の財産である。

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