『いなくなっていない父』を読んで

金川晋吾さんのドキュメンタリーノベル、『いなくなっていない父』を読み始めたら面白くて面白くて止まらなくなり、しまに感想まで書きなぐりたくなったので思いのままにしようと思います。

作品と書籍の面白さ

金川さんの写真作品とその被写体であるお父さんの説明についてはいつの間にか目にしていて、とても気になる、不思議な魅力を感じる連作だと思っていた。実は横浜市民ギャラリーあざみ野での展示やそのときに國分功一郎さんとの対談も実は聞きにいっていた。そのときの日記を読み返してみると「金川さん自身が(これらの作品について)思考していることが説明できないことであることを二人で確認しあっていた」と書いてあった。正直2018年のことは全然覚えていないんだけれども、國分さんが金川さんの写真、というか被写体にすごく魅了されているなーっていう印象を受けた気がする。私も実際に大判プリントで見てなおさらそう思って帰った。

そういうわけで金川さんの作品について少なからず知っていたものの、やはりそこに至るまでに詳細にかかれている今回の本がとにかく面白かったのは、写真を撮ること、その価値づくりをするかということや人生どうやっていこうかということへの取り組み、悩みがとにかく詳しく書かれているから、だったと思う。時には自分の問題ではないはずの番組づくりについても悩みはじめちゃっているのも大変面白く読んだ。出てくる人間が全員面白いし、人が深く反省するときの形容詞に「深海のように」と使われることに妙に感心した。まあそれはさておき、本当にたくさんの移動と人との交流の中で戸惑いながらもいきいきしている有様が良い本だった。

問いのままにしておくことと、問いかけること

さて、作品とその見方のようなものについてちょっと考えていきたいと思う。まず、どういうわけか被写体であるお父さんが妙に泰然としていて、見られることに無関心な感じでありながら謎の魅力を放っていること、そして作品を見る上で想像を掻き立ててくる生活のありさまの様々なこと、それらの問いについて疑問は疑問のままに「わかろう」としすぎずにおくことを仮に作中に出てくる方の名前を借りて富士本さん的見方としよう。ある意味でこうして私が勝手に本を読んで面白い面白いと味わっているのも富士本さん的態度にもとづいている。
一方で、その奇跡的とも言うべき面白さは金川さんの地道で切実な取り組み、写真作品を作るためにできることは何でもやろうという活動の上に成り立っている。だから偶然では全然ない。
なお作中の富士本さんも番組づくりのために必要な問いかけを金川さんに向けていた場面があり、やはり作ることはその着地点のようなものとは切り離せない。

遠い問いに耐えうること

なんというか、この本を読んで変な感想になるが、いかに自分が普段の生活の中で自分の嫌だと思うことを回避して生きているかがよくわかった。嫌だと思うことというのは面倒くさいけどやらなければならない仕事とか家事とかではない。(むしろそれらの逃避することで余計に面倒になるような実務的なことは最早、近年嬉々としてさっさと片付ける人間になりつつある。)
そうではなく、例えば気乗りしないのに頑張ってフィルムの枚数を数えながら撮影し続けた日のことが書かれているときに私はとてもドキッとさせられた。制作することの苦しさ、何がいい作品になるのかさっぱり分からないのに苦しいことを自分に強いなければならないあの気分。つまり、すぐに解決しそうにもないけれども向き合わずには解決しない「遠い問い」のようなものが私の回避したかった嫌だと思うことである。今は仕事の中で思いつく手近な工夫をして、ありがたいことにそれが評価されることも多くて恵まれた環境にいる(そういう環境に変えたということ)からこそ、自分がいかにそうした問いを問いのままとしておきつつ、そのなかなか答えの出そうにないものにアプローチする体力も耐性もないかがよくわかった。まあ、こう言ってはなんだけれどもそれってけっこう普通のことだと思う。つまり、金川さんは異様にその遠い問いへの耐性があるということなのかもしれない。
この遠い問いというのは実は身近に色々あって、例えばそれは自分を含めた人間がどんな人物であるかというレッテルをどこまで貼らずに判断を留保したままにしておけるかとか、何に対しても実は答えが出ようのないことでも仮の名付けのようなものをしなければ気が済まないような性質がきっと誰にでもあるし、誰かとその事柄について共有するとなれば尚更そうだと思う。

レッテルのないままいくことの入れ子構造

ここですごく雑になるが、どうしてこんなに金川晋吾さんの写真、特にお父さんを撮った写真が他の人物写真と明らかに異なるものであるのかの仮説を書いてみる。
学部生のときに真っ先になにかの授業で読んだジョン・バージャー『イメージ 視覚とメディア』にも、絵画(とくに油絵)が所有して飾ることによってそこに描かれた対象自体をヴァーチャルに所有する役目があったことが説明されている。写真にも同様の効果があって、映画「カラビニエ」であちこちの絵葉書を集めることでまるでその土地を所有したかのように振る舞う軍人の姿を河村彩先生の授業で見せてもらった。とにかくそこに描かれた、撮られた対象をキャンバス等の平面に固着させる性質上、イメージにはその対象そのものであるかのように見るものに思わせる構造がある。だからこそイメージは対象の性質そのものを捉えたかのように思わせるのであり、つまりそこにはレッテルを貼る仕組みが働いている、と言ってよいだろう。
さらには、ポートレートは個人を特定するためにも扱われるものであり、撮られている対象の本人もまた、その画像を見る誰か他者に対して「自分がどんな人間であるか」のレッテルを貼る現場でもある。一般的に。
けれども、金川親子の場合は、撮られているお父さんも自分がどんな顔をして良いやらわからないし(これはまあそんなに少なくないことではあると思うが、それにしても謎の余裕の表情である)、撮っている人もまた、このひとがどんな人なのか、繰り返し説明しようとしては留保を繰り返す「遠い問いへの耐性」が高い人物であるからこそ起きている現象のように感じた。

なんていうふうに、遠い問いへの耐性がひくほど低い私は、こうして考察することで、レッテルを貼りにかかっているのである。けれども、こんな説明を抜きにしても金川さんの写真には魅力が備わっていて、むしろそれがあるからこそ、ついつい考えてしまいたくなるのである。



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