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【試し読み】八分目の距離


ただ一緒に美味しいものを食べるような、ただ一緒にいい時間を過ごすような、そういう二人の、なんてことはない日のおはなし。

◇昨日の夕食に食べたものさえ、思い出せないことがあるというのに


 先ほどからおなじセリフを既に三回ずつ繰り返している。

「たまごハンバーグでしょ」

「いやいやちがうよ、ナポリタンだろう」

 初めて一緒に食べたものがなんだったか。お互いに記憶をたぐりよせ、思い出したメニューが、たまごハンバーグとナポリタンだった。

 私にとってはどちらも、今、目の前に出されるのとおなじ鮮明さで思い出すことのできる、お気に入りのメニューだ。彼もそうだろうと思う。けれど、どちらが初めて食べたものなのかということになると、さすがにそこまでは思い出せない。

 初めて二人きりで食べたものならば、すぐに言える。私がテリヤキバーガーで、彼はクアトロチーズバーガーだ。お互いセットにはせず単品で。あのとき二人ともサイドメニューにオニオンリングを選んでいて、それがなんだか気のあう証拠のように思えた。ドリンクは、私はどこでも大抵そうしているようにアイスティーで、彼はアイスコーヒーか、アイスカフェラテか、そこだけはちょっと記憶が曖昧だけれど、二つのうちのどちらかだったと思う。彼は時によってあれこれ飲みわけるタイプだから、いつもおなじドリンクだとは限らないけれど、ミルクの混ざったカップを持った手が、まだ新しい記憶の中にはっきりと刻まれているからまちがいない。

 とにかく、初めて二人きりでなにを食べたのかだったら、すぐに思い出せるのだ。それでも、それがまるっきりの初めてのとき、となるとそうはいかなかった。

 ずいぶん昔の出来事だから、頭の中で再現される映像も不鮮明になる。ましてや彼と二人きりという状況ではなかった。十数人で食事をする席に二人ともたまたま居合わせた。そういう日の記憶だ。

 この日だと確信の持てる一日を思い出すのともちがう。あのとき、たしか彼も居たんじゃなかったっけ、程度のあやふやな情報しか、私の頭には残っていなかった。訊いてみてはいないけれど、彼もきっとそうだろう。それゆえ、もしかしたら私と彼とでは別々の日を思い浮かべている可能性だってある。

 そんな状況の中で、かつて初めて一緒に食べたものが、たまごハンバーグだったかナポリタンだったかの議論をしていた。まだ二人とも酔ってはいなかった。私が飲んでいるのはごく薄いウーロンハイだし、彼のビールも二杯目に口をつけたばかりなのだから。



 彼とは、おなじサークルの先輩後輩の間柄だった。当時、特別に仲が良かったわけではない。長時間話し込むようなことも、二人だけで時を過ごすようなこともなかった。お互いに顔と名前を、存在を、知っている程度だったと思う。

 サークルは社会学研究会と言った。人間の社会的生活や社会問題を研究する学問系サークルで、主に流行についての研究することを活動目的としていた。まず体験して、現代社会を考える。活動指針は確かそんなふうだったと記憶している。なにより「今」を体感しようと、とにかく街に出るサークルだった。

 ヒットチャートを追い、流行もの、売れている物を知ることから、サークル活動は始まった。正解は誰にもわからないものだけれど、分析して、未来を予測し、語り合った。大型音楽フェスに参加したり、遊園地で三時間待ちのアトラクションに並んで人々の様子を観察したり、そういうことをして後に再現映像を作成することもあった。

 そんなサークルに入ったばかりの一年生と、もうすっかり定位置と人間関係を形成済みの三年生が初めて一緒に食べた食事がなんだったか。考えてみて欲しい。容易に回答できるものだろうか?

 私と彼が今まさに議論しているのは、そういうことだった。誰がいつ、どの会に参加し、あるいは参加しなかったのか、気軽な飲み会では参加記録など取らない。記憶だっておんなじだ。この日の、このときに、食べたものがなんだったと断言することなどできっこない。恋人との食事の記憶ですら、時間とともに曖昧になってしまうものだというのに。

 当時、私には高校時代から付き合っている彼氏がいた。彼とよく行ったカフェの雰囲気や自分が好きだったメニューはまざまざと思い出すことができるのに、彼が食べていたものに限って考えると、よく思い出せない。彼が私にとって初めての彼氏だったというのに。 

 彼と初めて、二人だけとは限定せず一緒に食べたものだったら、それぞれが持って来たお弁当だったということになるだろう。たぶん教室でお互いがお互いの友達と食べていたはずだ。私は母が持たせてくれるお弁当の甘いたまご焼きが大好きだった。彼が好きなものも、お弁当がどんなものだったのかも知らない。彼のお弁当箱が月刊漫画誌とおなじくらいの大きさだったことくらいしか、私は知らなかった。ときどき視線を交わすことはあっても、教室で一緒にお弁当を食べたことは一度もなかったと思う。

 初めて二人だけというシチュエーションで食べたものはなんだったろう。下校途中にコンビニで買った肉まんか、映画の前に食べたカフェスタンドのベーグルサンドか。課外授業のあとに寄り道したラーメン屋のチャーハンだったかもしれない。

 ほらね、初めての恋人との記憶ですらこんなにも曖昧なのだ。ましてや特別な関係でもない、まだよく知りもしなかった先輩と過ごした一日をピンポイントに思い出すなんて、どう考えても無理なはなしだ。

 現に、再会するまで先輩のことは忘れていた。顔を思い出したことすら一度もなかった。彼はどうだっただろう? そういえばあの頃、彼に恋人はいたのだろうか。あまりモテる先輩だとは思っていなかった。ちがったかな。それすらはっきりしない。ずばり言ってしまうと、それくらいに印象が薄かった。

 そんな先輩だった彼と、半年前、かつてサークルの幹事だった人物の結婚パーティで隣り合わせた。なんとなく知っている人だなぁ、くらいにしか私は彼のことを思い出せなかった。思い出せないまま、それでも支障がない程度の話をした。翌週から付き合うことになるなんていう、運命の再会感も、恋の訪れの予感もなく。

 パーティの翌日の月曜日、週明け特有の朝のバタバタがひと段落ついて、お茶でも煎れようかと思ったところへ、彼が電話をかけてきた。会社に電話をするなんてプライベートな携帯電話なんかにかけるよりも、実際に行動に移すためのハードルが高いと私は思うけれど、彼はそうではなかったらしい。

「外周りで近くまで来てるんだ。よかったら昼飯でも食わない?」

 直通ではなく、誰かにつないでもらわなければならない部の代表電話に電話をしてきて、彼はそんなことを言った。

 もちろん、断ってもよかった。電話番号に住所、ビジネス名刺は情報をダダ漏れさせているのだと、多少気味悪くも思った。けれど、まあ知らない間柄ではないしランチくらいならと応じていた。

「こないだオレ、名刺持ってなかったし」

 もらいっぱなしはフェアじゃないとかなんとか言って、彼は自分のビジネス名刺を渡しに来たのだと言った。どこに電話をしても名乗れば怪しまれることのないような、巨大企業グループのロゴが印刷された名刺だった。

「係長?」

「まあ長くやって来たから、それなりにはね。現場リーダーってとこだよ」

 虎の威を借りているわけではなさそうなところはいいなと思った。

「それでさ、プラ電、教えてよ」

 彼はふざけた口調で話題を変えた。

 たぶん私の眉間には皺が寄ったと思う。こんなに調子のいい感じの人だったっけと、ちょっとがっかりした。どうしてがっかり? 今になって思い返すと不思議なのだけれど。

「無理だったらいいんだ。ほら、他にどうしようもなかったから会社に連絡しちゃったけど、心臓バクバクだったからさ、もっと気軽に連絡できたらなって思っただけで他意はないよ。今度電話するときは声が震えないようにがんばればいいだけだし」

 そんなことがあって結局、昼休みが終わる前に私は彼に携帯の番号を教えていた。記憶とおなじく人間関係の行方も、とても曖昧なものだと、考えるまでもなく思う。

 たまごハンバーグとナポリタン。昼となく夜となく何度も食べた、大好きだったメニューを、私自身が初めて食べたのもサークルの新歓時期の食事でだった。新入生は先輩たちにあちこち連れて行かれることで、大学のあったあの街のことを学んでいった。大学生としての人間関係の始まりなんかも。

 あの頃、あの街には、社会学研究会の面々がたまり場として好んでいた店がいくつかあった。都心から少し離れた郊外の、大学のキャンパスが増え続けている一帯は、私が入学する前の十数年で学生街になったのだという。学生の増加にあわせるように、もともとはスナックや飲み屋であったのであろう店舗がカフェと定食屋の中間のような店になっていった。

 古めかしかったり、無駄にデコレイトされた内装、ゴージャスで重過ぎて動かせなそうな家具が並んでいる店なのにメニューはリーズナブル。そんな店が個性的と受け取られて流行っていた。

 たまごハンバーグとナポリタンは、そんな店のうちの一つの人気メニューだった。かつてはテーブルをおなじくするメンバーの半数以上が注文するくらいだから大人気だったと言っていい。店はいつも混んでいた。社会学研究会のサークル員たち殆どと、初めましての挨拶をこの店でしたと思う。

「こいつ知ってる?」

「もう会ってたっけ?」

 誰かにくっついて店に行く度に訊かれ、誰かしらを新たに紹介された。だから彼と初めて会ったのも、そして初めておなじ場所で食事をしたのも、そんな期間の、この店でのことのはずだ。

 たまごハンバーグとナポリタン、どちらかを食べた可能性は相当高い。それでも、どちらだったのかと問われると、こっちだと断言するには決め手に欠ける。たまごハンバーグを食べたのだと私は思い、彼はナポリタンだと言う。

 どちらを食べたのか、わかったからどうだというわけではないけれど、私も彼もどちらも譲らなかった。ウーロンハイが入った大ぶりのグラスが汗をかいている。

「まだ今も人気のメニューかな」

 話題を逸らしたかったわけではないけれど、ついそんな言葉が出た。

「あたりまえだろう、目玉焼きがのってるんだぞ」

「そうだよね」

 ツヤツヤ黒々と光るソースの上で、柔らかい白身に四方を守られた黄身が山吹色に輝いている目玉焼き。オレンジ色の麺の山の頂で、ゆるりとしなだれる繊細な黄金色のフリルに縁どられた目玉焼き。プルプルとした黄身をそっと崩して食べても、どこも壊さないよう注意深く食べても、どちらでも最高に美味しかった。とにかくそこに目玉焼きがのっているというだけで、得をした気分になったものだ。

 あたりまえだよね、目玉焼きがのってるんだもん。今も若い人たちが、そこに価値を見出すかどうかはわからないけれど、目玉焼きがのっているのだもの!


(-昨日の夕食に食べたものさえ、思い出せないことがあるというのにー終わり nextー懐かしい場所を訪れても、タイムトラベルをするようにはいかないーにつづく)


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