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【小説】稲毛海岸ドリーマーズ①

連作掌編小説です。
全文無料でお読みいただけます。


*A*

 海岸なのに海が見えないな。

 ここに引っ越してきてすぐのころ、そう思った。思ってしまったら気になって、海がどこにあるのか、地図を検索してみると、車で10分、歩いたら30分くらいのところに、海はあった。日本で最初に作られた人工海浜の海水浴場。そんな説明書きもあった。

 海はあるけど絶えず見られるわけではない。勝手に膨らませた想像とは全然ちがっていて、ちょっと残念ではあるけれど、ときどき塩の香りはする。私の住む稲毛海岸はそういうところだ。

 そんなふうに海岸と名前のついた街を思うとまたおかしな気がするけれど、私はフィンランド語で「森」を意味する、メッツァというケーキ屋で働いている。

 以前は別のケーキ屋で働いていた。大手ケーキ屋チェーンだったけれど、マニュアルに準じてばかりの仕事に疑問を持ち、これじゃあつまらないと転職して、メッツァに入社した。

 メッツァは関東に数店舗しかないケーキ屋だから、てっきり都内のどこかの店に配属になると思っていたのだけれど、

「来月1日から稲毛海岸店でお願いします」

 採用通知とともにそんな辞令がおりた。

 それが28日のことだったから、「あさってから」って言わないのはなぜだろうと、余計なことが気になってしまって、そのときは稲毛海岸店が千葉にあるお店だということにまで気が回らなかった。

 数時間後、都内の店舗ではないことに気が付いて、すぐに部屋探しを開始し、何日間かだけ、それまで住んでいたアパートから出社。通勤を思うと意欲が減退する、なんてことになる前に引越しを遂げた。

 そんな感じで、私は気になることがあるとそればっかりに気持ちがいってしまって、それ以外は見えなくなってしまうタイプだ。どうにも止まらない考えごとに耽ったり、突っ走ったり、他のことが疎かになったりしてしまう。

 そういう状況を恐れつつ、今、私が最も気になっているのはお店のことだった。

 メッツァのケーキは美味しい。小振りでしっかりと甘く、なめらかだけど濃厚。可愛らしい見た目もあって、売れゆきには困らない。けれど、お店が中途半端で気になるのだ。

 メッツァ稲毛海岸店はテイクアウトオンリーの店ではなく、イートインもできるようになっている。問題はそこだ。イートインができるといいながらも店内には、窓に向かったカウンターテーブルと椅子が2脚、たった2席があるだけなのだ。

 なせ2席?
 たった2席って、必要ある?
 増やすか無くすかできないもの?

 私の頭はこの三フレーズでいっぱいになっている。

 毎日、2席を巡る人間模様に、ハラハラドキドキモヤモヤしてばかり。長居するカップルや、もったいなさそうにちびちびケーキを食べる子供はまだいいとして、「もう一つイスを」とのたまう三人連れや、席に座っている人の真後ろに立って空くのを待つ人、席が埋まっているのを見るや舌打ちをする人に我慢がならない。

 もう一つイスがあるのであれば最初から出しているし、威圧的気配を放つ人間が真後ろに立って食べるケーキがどんな味になるのか心配でたまらない上に、両者の威嚇合戦が見えたりするとケンカになるのではないかとドキドキが止まらなくなる。下品な舌打ちにはイラッとする。どんな状態であれ、舌打ちを耳にして気分がいいわけはないから、他のお客様の気分も害してしまっているだろう。

 2席だけのイートイン席があっても、いいことなんてなにもない。いっそ席など無くしてしまいたい。

 メッツァのケーキは美味しい。本当に美味しい。おなじように思ってくださるお客様が、満面の笑みを浮かべ大事そうにケーキの箱を持つ姿を見るのが好きだ。それなのに、席が埋まっているとなにも買わずにがっかりして帰ってしまうお客様もいる。2脚しかない席を心から恨めしく思う。

 それとなく店長に訊いてみると、この店の2席は特殊な例のようだった。他の店舗は席などまったくない店がほとんどで、新宿店のみ4人掛けテーブル席が4つあるのだという。

 それならばなぜ?

 店長も理由は知らなかった。そして私が席をめぐる良くない場面について話をしても、

「あるよね、そういうの。まあ、テキトーにやって」

 返って来たのはそんな返事だけだった。

 私は絶望的な気持ちになる。この分では私がどんなに力説しても、本社にかけあってなどくれないだろう。

 気になって気になって、もう仕事なんかしていられない。他のことが考えられないくらい、気になって気になって仕方がないのだ。それでも、たぶんこれは海岸なのに海が見えないのとおなじくらい、どうしようもないことなのかもしれないと、心のどこかで思ったりもする。

 いつか、あたり前だと平気になるときがくるのだろうか。私がこの街に馴染んできたのとおなじように。


<稲毛海岸ドリーマーズ、ぜんぶで数回の投稿を予定しております>

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