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0000:【用語集】人生はなぜ辛いのか?と思ったときに読むブログの用語解説集【随時更新】

最終更新日:2019年8月7日(水)3Dグラフィックス
      2019年8月1日(木)じゃんけん

(せつめいがき)

こんにちは! みゅんひはうぜんこと日南本倶生です。
(^~^ )←自画像

いつもわしのノートを読んでくださってありがとうございます。

さて、わしのブログとその転載noteなんですけど、「分かりづらい」という話をちょいちょい頂いております。そりゃそうだ(笑)。だってわししか知らないことばっかり書いてますからね。
(^~^;)

そこで、用語集を作ります。一般的な単語も、わしは違う意味で使っていたりしますので、「ん???」と思ったときにこのページを開いていただくと、解かるかもしれません。解らないかもしれませんが(笑)。

ちょいちょい更新する予定です。追加リクエストも受け付けています。コメント欄にお気軽に♪
d(^~゜ )

このnoteは、わしのトップに設置しますので、いつでもそちらからご覧ください。


あ~な

愛(0035
愛とはなにか。
端的にいうと、モトの量である。
わしらが、周囲のモトを多いと感じているとき、わしらは「愛」の気持ちを持つ。これは相対的な量の話で、何グラム持っているか、という定量的な話ではない。自身が「いっぱいある」と感じているとき、ココロには愛が起こる。
愛とモトには、非常に重要な関係がある。まず、わしらのココロに愛が生まれるほど、わしら自身が、周辺をモトが満たしていることに気づいていると、今度はわしらの周辺の「無」の状態のモトが「有」の状態に変化し始める。こうなると、愛は止まらなくなる。いつまでもいつまでも、モトが増え続ける(どんどん無→有になる、という意味)。
しかし、わしらのアタマやココロというものは、常に周囲の状況に流されてしまいがちなので、なんかの拍子に「あ、モトが減ってってる!」と感じてしまうと、もうココロが愛の状態ではなくなってしまう。そうなると、愛は止まってしまう。
尽きせず湧き出る別府温泉のように、いつでもココロに愛を持ち、周辺にモトをどんどんバラ蒔けるようになったら、きっともう人生が辛いとかそういうのも、どうでもよくなっているはずである。
なので、当ブログでは、ちょいちょい「愛」と「モト」(有の状態)を、同じものとして扱う。モトは愛である。


アタマ(0017
3つのパーツの一つ。考えて行動を決定する要素。自我という言い方もある。でも自我、と言っちゃうと、なんか自分の「本体」みたいな気がしちゃうので、このブログでは使用しない。
あくまで、ほかの2つのパーツと同等に「自分の本体」を構成しており、そのうち単に「思考」を司っているパーツであるに過ぎないのだが、これが自分自身の本体であると勘違いしてしまうと、よくほかのパーツとケンカしてしまい、結果として体調や精神を壊してしまう。


うにのトゲ理論(0042
人と人が、モトを通じてどういうふうに接続しているのか? を表すモデル。
世界はモトで出来ていて、境目がない。だが、そこから「人と人がつながっていること」を説明するために、その部分だけを抜き出すと、わしら全員の本体であるおおもとのココロと、それにつながっているわしや汝ら、というモデルができあがる。
これはおそらく、一つ上の次元から見ると、うにのような形をしていると思われる。ネーミングはそこに由来する。
当然、生きているうにである。わしらが食卓で見るうには、うにの中身である。あれって生殖細胞なんですってね。キン○マみたいなもんですかね。そりゃ滋養もあるわな。
わしらは、もともと一つしかなかったココロ(上述の「おおもとのココロ」)が分化してできた「個体風の存在」である。JPOPによくある「ひとりじゃない、みんなつながっている」という表現は、モトの観点からすると、至極当たり前の現象なのである。もともと一つしかないんだから。


カラダ(0013
3つのパーツの一つ。わしらの「存在」と「行動」を司るパーツ。特に地獄世界では、このパーツなくしては、存在そのものが成り立たない。
だが、地獄世界でわしらに備わっている「肉体」というものは、厳密に言えば、カラダとは異なる。それはどちらかというと、わしがカラダと呼んでいるパーツの一部である。
カラダが存在する本来の意味は「他者と自分とを区別する境界線」である。ゆえに、必ずしも「肉体」を必要とするわけではない。


神さま(0051
わしらの正体。わしも汝も、神さまの一部分である。うにのトゲ理論で出てくるうにの正体でもある。
この世界(天国と地獄を合わせたすべて)は、神さまでできている。神さまでない部分は、存在しない。存在し得ない。
この世界の始まりのとき(時間の始まりではない)、神さまは自らのココロ(ココロだけの存在なのだが)を、超絶こまかく分割した。それがモトである。
わしらはこのモトでできた存在である。もちろん、この世界のすべてはモトでできているので、全部が神さまのパーツである、ということになる。
もちろん、神さまは全ての時間の、全ての場所のモトの状態を完全に把握し、記録しているので、ゆえに「全知全能」である。神さまにコントロールできないことは、この世界には存在しない。存在し得ない。
神さまは、自分自身というものを知るために、自分自身を分割し、個という概念を生み出した。ゆえに、個とは幻想なのであるが、わしらはそれを意識して生きる必要はあまりない。神さまもそれを望んでいるわけではない。
ただ、生きるのが辛い、と思った時、この「神さま」の性質や、わしらの存在する役割のようなものは、知っておいた方がいいのではないかと筆者は思っている。人生が楽になるからである。


ココロ(0014
3つのパーツの一つ。考える前に行動を決定する要素。アタマ同様、あくまで3つのパーツの一つであるがゆえ、これこそが「自分の本体」であると勘違いしないよう留意すべし。
世界の構成を考慮すると、実はココロが一番最初に存在し、残りの二つのパーツはその派生物であった。が、特に人間ほどアタマやカラダが発達した生物は、ココロだけでは成り立たないので、やはり3つのパーツが揃って、一つの魂を構成する。


個別のドラマ(0002
人生、様々な事件や経験の積み重ねで構成されている。
これらの事件や経験は、人によって全く違うものである。例えば、お金の事、病気や健康の事、家族や恋人のこと、人間関係の事、そういった、「人生というドラマ」を構成する、一つ一つの出来事を指す言葉。
前述の通り、人生というのは個別のドラマの集合体である。ゆえに、それぞれのドラマに必要な対処法は、人の数だけある。
人生が辛い時、それら対処法ばかりを幾ら網羅しても、根本的な解決には至らないのではないか、という疑問から、このブログは始まっている。
というわけで、個別のドラマの話は、0076辺りから始まります。
お楽しみに♪


時間軸(0065
四次元以上の空間において、空間を構成する要素の一つとなる軸。
地獄は三次元空間である。地獄では、時間は「流れるもの」である。マリオでいうと、画面の左から右に強制スクロールしていき、左に戻ることができない、それが時間である。もちろん、画面の左に消え去ったキノコやコインはもう取れない。
だが、四次元以上の空間においては、時間は「軸」である。縦とか横とかと同じ感覚のものである。なので、好きな時間に自由に行ける。
逆に言うと、この状態だと、未来で起こることは、みんな事前に分かってしまっていることになる。これでは「じゃんけん」にならない。
さて、時間軸は円を描いている。ビッグバンを宇宙の始まりとするなら、その直前の状態に戻ることが「終わり」である。故に、時間には「終わり」がある。
わしの予想では、この地獄世界の全部が「有」のモトで埋め尽くされるときが、時間の終わりである。それは、三次元世界のすべてが愛で満たされることを意味する。生物・無生物の垣根を超え、愛が完全なる一個の物質になるのである。


地獄(0004
わしらが住んでいるこの世界のこと。世界は二つしかなく、この地獄と、天国と、それだけです。


じゃんけん(0010,0021
手を握った状態をグー、全て開いた状態をパー、人差し指と中指だけを立てた状態をチョキと呼び、それらを合図とともに出し合って、勝敗を決定するゲーム。日本では大変ポピュラーな遊びで、ちびっこから老人まで、何の説明も道具もなく楽しめる。
簡単に素早く楽しめる遊びであるがゆえに、様々なシーンで何かを決定する際に、真剣に用いられることもある。生死や財産をかけて行われることもある(少なくとも漫画の世界では)。
じゃんけんの優れている点は「あいこ」の存在にある。同じ手を出してしまった場合、あいこの状態になるのだが、この場合どのプレイヤーも、勝ちでも負けでもない、宙ぶらりんの状態になるのである。
この「あいこ」の状態になった時の、ほっとするような、あせるような、不思議な感覚は、誠に日本的だと思う。どっちでもない、が許される数少ない文化の誇るべき点じゃないかと個人的には思っている。
さて、わしら人間を含む生き物はすべて、この「じゃんけん」がしたくて生まれてくる。といっても、実際にじゃんけんをするわけではないのだが、わしらが地獄で生きている時間のうち、相手を食べたり、相手に食べられないようにしたり、うまくパートナーと生殖を行ったりと、腹の内の見えない相手との駆け引きをすることが大半を占めることから、こういう例えを使っている。


好き嫌いゲージ(0015
わしらのココロが、物事のすべてを判断する基準となる、架空のゲージ(メーター)。
右端に「好き」、左端に「嫌い」を書き、その間を線で結ぶ。中央に「どちらでもない」を書く。できあがり。
わしらは、注目したものに対し、このゲージの「どの位置に気持ちがあるか」で、この地獄世界のあらゆるものを、自動的に分類して生きている。
すべての感情は、この好き嫌いゲージの針の位置によって発生する。


3Dグラフィックス(0013
コンピュータグラフィックスを使って作られた、擬似的な三次元空間のこと。
コンピューターの画面は、本来二次元空間である。そこに「奥行きがある」と仮定し、遠近法(大きいものは近い、小さなものは遠い)を利用して、まるで三次元空間であるかのように描画する技法である。
黎明期はワイヤーフレームという技法で、近年はポリゴンという技法で描かれる。
コンピューターの処理を軽くするため、ポリゴン画像はこちらから見えている部分のみ描かれていることがある。つまり、こちらからは人物に見えているものも、カメラを向こうに回すとがらんどうだったりするのである。
素粒子物理学の世界では、観測をやめた途端、粒子が消滅する、という現象があるという話を聞いたことがあるけど、もしかしたらコレなんじゃないかとわしは密かに思っている。


天国(0009
生き物が死んだら帰っていくところ。もともと天国にいるわしらが、なんかやりたいことがあって、地獄にやってきている、というのがわしの生死観です。だから、行く、のではなく、帰るところ。



は~ん

3つのパーツ(0007
生き物を構成するパーツ。アタマ、ココロ、カラダの三種。それぞれに独自の作動原理があるが、それらはシームレスに繋がっている。
すべてがそろって、初めて一つの人格を構成するので、お互いに主従関係などはなく、ましてや、アタマが汝の本体ではない。注意されたし。


モト(0027
架空の素粒子。地獄にある物質を形作っているのみならず、わしらの精神活動にも大きく影響を与える粒子。
モトは、地獄世界の一定の座標上から動くことはなく、「有」と「無」の状態のどちらかになることによって、物体を存在させたり、移動させたりする。
モトは、わしらの精神活動によって、「有」や「無」の状態に変化することがある。具体的には、好き嫌いゲージが好きの方向に近い時、魂の周囲の空間で「無」から「有」に変化する。魂の注意がそれると、「有」から「無」に変化する。
アクセントは「↑モ↓ト→」。「猫」と同じ。


ラバランプ(0041
インテリア照明の一種。筒状のガラス管に、二種類(以上)の液体が入れてあり、下部からライティングすることで、中の液体を熱し循環させる仕組みのランプ。
もともとイギリスで1960年台に発明されたものらしく、それが米国に渡って大ヒットしたことで、世界に広まったのだそうだ。ラバとは英語の「LAVA」(ラーヴァ)で、溶岩という意味。ラバー(ゴム)ではない。
元祖はイギリスのマスモス社というところで、現在もオシャンティなやつを販売しているが、日本には代理店がないらしく、入手は困難だという。
わしはこれ(のパチもん)を、ドン・○ホーテでぼけーっと見ていたときに、モトのアイデアをひらめいた。ド○・キホーテ恐るべし。


輪廻転生(0066
わしら生き物は、この地獄に生まれた後、死んで、そして天国に帰るのだが、その後また地獄に生まれてくることがある。このループを輪廻転生という。元は仏教用語である。
命には終わりがない。死というのは、ひとつの出来事に過ぎず、この地獄世界をはなれ、元いた天国世界に帰るための通過儀礼のようなものである。
そして、うにのトゲ理論により、わしらはもともと一個の命の部品のようなものにすぎないのだが、その部品(わしや汝)各々に自我と個性があるので、それは死んだあとも、もちろん残る。
残った「個」は、前世(死ぬ前の人生)でやり残したことや、もっと改善したいところを洗い出して、次の人生を設計する。そして、そのとおりの人生を歩めるように、レコードの溝を刻み、また生まれてくるのである。
こういった人生(もちろん他の生物・無生物を含む)がいくつもいくつも、それこそ神社のしめ縄のように、ぎっちぎちに編まれているのが時間軸というもので、そのしめ縄の、ひとつのわらしべが人生だとすると、わらしべの端で終わった人生は、すぐとなりにある次の人生を生き始める。そうやって時間は編み上がっている。


恋愛感情(0035,0077
恋愛感情は、カラダからの信号にココロが呼応して起こる感情である。
具体的には、性ホルモンによる脳の刺激に対して、ココロが「子作りをしたい」という欲求を発生させることにより、起こる感情である。
そのため、ものすごく平たく、身もふたもなく言ってしまうと、「恋愛感情は性欲」である。
『恋は盲目』などと言うが、カラダ→ココロという具合に、直通で起こる反応であるため、アタマは完全にスルーされる。恋はまさに盲目なのだ。
恋愛とは、他者との関係である。お互いがお互いに性的魅力を感じたところから、恋愛関係はスタートするが、その後はまず「性欲を伴った人間関係」になり、そしてやがて、どちらかの性欲がなくなった後は、単純な「人間関係」となる。
恋愛という名の性欲がいつ終わるのか、それは当人にしか分からないので、こちらがまだ恋心を抱いていても、相手にその気がいつまであるのかを、わしらは人間関係の中で、常に推し量り続ける必要がある。そして、相手の恋愛が終わっていると感じたら、そこから先は「良好な人間関係」に注力して、関係を維持すると、カップルは長続きする。
恋愛においても、モトは大きく動く。モトの動きに注意して関係を維持しないと、恋愛はすぐに破局する。


『人生はなぜ辛いのか、と思った時に読むブログ』
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https://jinseihanazeturainoka.blogspot.com/
このブログの文章を初めてお読みの方は、ぜひ第1回からお読みください。
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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)