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子どもたちへの宗教教育の必要性

新渡戸稲造著『武士道』の冒頭に、このようなくだりがあります。

「あなたがたの学校では、宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか!」

「ありません」と新渡戸稲造が答えると、ベルギー人宣教師はこのようにたずねたそうです

「宗教がないとは。では一体あなたがたはどのようにして、子孫に道徳教育を授けるのですか」と。

新渡戸稲造は、日本には「武士道」があり、「武士道」の教えが日本人の道徳観になっていると考え、外国人のために『武士道』を英語で著したようです。しかしながら、新渡戸稲造は、そもそも札幌農学校(現在の北海道大学)で内村鑑三等とキリスト教を学び、洗礼も受けている教育者です。子どもたちへも、大人たちへも宗教と道徳について教えたかったに違いありません。

新渡戸稲造は1862年生まれです。明治元年が1868年であり、明治政府が開国を決定したのは1869年です。その後、今に続く「文明社会」があるべき姿として、この国の人々は「和魂洋才」を追い求めてきました。「文明社会」とは、「物質文明社会」と言い換えることもでき、それが加速度的に発展したのが「グローバル経済社会」であると私は捉えています。

私たち日本人は、残念ながら宗教とは何かについて教えられていません。故に、宗教の話もしませんし、できません。私もクリスチャンになる前は、宗教とは何かについて調べたことも有りませんでした。それでも、図書館で読んだ本の、覚えている部分がありますので以下に記します。

・文明開化前、つまり江戸時代には宗教という言葉が日本にはなかった。
・英語のreligionの訳語が存在せず、(当時の文化人が)宗教という言葉と哲学という言葉に分けて訳語とした。
・この宗教と哲学とが中心となり思想が形成される。

religionには「生きがい」という意味があり、無血開城を成し遂げた人たちの命がけの行動の源に、このreligionがあったのだと思います。

さて、この記事のタイトルには宗教教育の必要性という言葉が含まれますが、必要とされる宗教教育とはどのようなものであるべきか考えてみます。もちろん、日本国憲法により信教の自由は保障されていますので、特定の宗教について私見を述べることはありません。科学の「科」には分けるという意味があります。ここでは「宗教を科学的に?分けて考える」ことで、子どもたちへの宗教に対する理解を高めることを狙いにします。

私はクリスチャンですが、日本のディズニー・テーマパークで働いたことがあるため、敬愛するウォルト・ディズニーの宗教観が、日本の子どもたちへの宗教教育の参考になると考えるに至りました。

ウォルト・ディズニーの娘シャロン・ディズニーはこのようにウォルトの宗教観について語っています。

「彼は、宗教的であるからといって、教会に行く必要があるとは思っていなかった。彼はあらゆる宗教に敬意を払っていた。彼はいかなる宗教も批判の対象にはしなかったし、宗教にからむジョークは一切言わなかった。」

イッツ・ア・スモール・ワールドは、人形で世界の子どもたちを表現し、その子供たちが、人類の調和と世界の平和の歌を歌っています。世界の三大宗教に限らず、すべての宗教は人類の調和と世界の平和を追求するものであると言っても過言でなないでしょう。

戦前の国家神道が惨禍を招いたという判断であったのでしょうが、現在でも日本は、憲法に基づき、政教分離の原則が貫かれています。しかしながら、ドイツの前メルケル首相はキリスト教者民主同盟という名の政党に所属していますし、アメリカ大統領も就任式には、聖書に左の手を置いて宣誓する事実を鑑みた場合、他国の国家理念や価値観を尊重し合うことが大切であるということに異論を唱える人はいないと断言できます。

これらのことから、多様性という言葉が〝重宝〟される現在、多様な価値観や宗教観と、多様であって良いのか悪いのか判断が分かれる道徳観とを、子どもたちに考えて欲しい、論理的思考で話し合って欲しいと願って止みません。

本文中にこのように書きました。

ここでは「宗教を科学的に分けて考える」ことで、子どもたちへの宗教に対する理解を高めることを狙いにします。

学校での「偏りのない宗教教育」より、地球市民として宗教を正しく理解する力と、科学的に形のないものを分けて考える力を育む、宗教観が問われる戦争が起きている今、さらにその必要性が高まっていると考えます。


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