飯豊温泉

小国の温泉で湯爺爺にあった

小国町の梅花皮(かいらぎ)荘に泊まって、

飯豊(いいで)温泉のお湯に浸かってきた。

おじいちゃんが一人、ぽつんと湯船に入っていた。
ほかの客もいないし、ちょいと会釈して、
窓から見える飯豊連峰の切り立った山を眺めていた。

ら、おじいちゃんが話しかけてきた。
聞けば、ばあさん(奥さん)を亡くされたばかりで、
家にいても寂しいから、ここへきた。
小国のこのあたりの出身で、名古屋在住。

話を聞いてるうちに、
『千と千尋の神隠しに』でてきそうなキャラに思えてきた。
ボウズ頭、耳がでかく、目もでかい。
痩せてるけれども腹は出ている。
「湯婆婆」からの、「湯爺爺」か。

失礼じゃない程度にお付き合いして、
「じゃあ、また明日会いましょう」
とか調子のいいことをいって風呂を出た。

そしたら翌朝、ホントにばったり、
脱衣所で脱いでいたら、おじいちゃんが入ってきた。
5時30分。
おじいちゃんから、「おっ!」という声が漏れ出た。

こりゃ覚悟決めないとなあ、と
わたしから昨日の話の続きを求めてみた。

昭和10年生まれ。
農家の三男坊だったので、
成長したら家を出された。
福島を始め、いろんな場所で働いたが、
いずれも住み込みで賃金は低く、
名古屋まで下ってきたっところで、
人に使われるより人を使う側になんないと、と
魚市場で頼み込んで運送の仕事を請け負ったり、
自動車の部品の製造、ボイラーの機材の販売。

ボイラーの機材? なんじゃそりゃ、と聞いたら
「ボイラーをつけたら、レンガで囲ったほうがいいで、
そのレンガを売って運んどった」

昭和30年代、朝鮮戦争から経済成長期に入っていた。
大きな施設がどんどん建てられ、
ボイラーもどんどんつけられ、
レンガもそれだけ売れて売れて、しょうがなかった。

人もモノも足りなかったから、
みんなみんなで働きに働いた。
すき間を見つけて、そこを埋める事業を立ち上げた。
会社は大きくなり、個人商店も増えていった。

「2トン車で熱海やら横浜やら、
名古屋からよ〜行った。
寝てないから、あんましスピート出さんように、
大きなダンプの後ろを走った。
ダンプはスピード出ないし、
後ろをつけて走れば、いろいろ考えんでもいい。
ダンプが走れば走り、止まれば止まる。
そんだけじゃ」

湯爺爺は、2ヶ月ぐらい長逗留するという。
仕事を引退して、そこそこ以上のお金を使える暮らし。

たぶん、湯爺爺の話の半分はウソだろう。
ところどころで突っ込んだら、
間違って答えていた。

でも、世の中前を向いていた時代だったことは確かだ。
わたしの実家も、トロ箱(肴を入れる木の箱)の製造販売から、
ガソリンスタンドを起こし、
スタンドを大きくし、支店を作り、
自動車整備工場を隣接させ、
残された写真がモノクロからカラーに代わり、
父や母の服装が良くなり、
子どもたちが生意気になっていった。

トロ箱を運ぶトラックの中で育てられた赤ちゃんが、
わたしだ。

魚市場での運送はトロ箱を使う。
肴臭い仕事のあとは、自動車の油臭い仕事に。
湯爺爺の出身は小国町中里という集落。
わたしたち兄弟は、佐世保市立中里小学校を卒業した。

話はウソでもなんでも関係なかった。
父と話をしている気分になっていたから。