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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(12)

第三章 二都の角逐(その3)

 戦乱の世に流言飛語は珍しいものではない。神が降臨して民を救う、末世が終わり万人が天の裁きを受ける日が来る、乱世を平らげる聖王が現れる、といった浮世離れした話から、穀物の値段が何倍にも上がる、隣国の兵が攻めてくる、地震や洪水が起きる、などの身近な内容まで、様々な流言が人々の口に上り、多くはいつの間にか消えていく。
 しかし消えずにいつまでも残るものもある。そうした中には、あざとい思惑から意図的に広められたものも少なからず存在していた。敵対勢力への憎悪を煽る、敵の領内に騒ぎを起こす、国内の政争で自身の立場を強化する、布教や商売に利用する、仕官で自身を売り込む、と目的はさまざまだが、時には専門の騒動師や忍びの者まで雇って噂を広めることさえあった。
 オールディンの言った流言がその類のものなのかは分からない。だが、いずれにせよ、今のティルドラスには流言に付き合っている余裕などない。やらねばならぬ事はあまりにも多く、残された時間はあまりにも短いのだ。
 三月の末に父・フィドル伯爵の一周忌が来る。ネビルクトンに戻って祭祀を主催するためには、遅くとも三月の前半までにマクドゥマルを出発せねばならない。すでにサフィアからは、宮廷で任命する太守に旧バグハート領の統治を任せてネビルクトンに帰還し、式典の準備を始めるようにという催促がひっきりなしに届いている。新しい太守には、当然、サフィアの息がかかった人間が送り込まれてくるはず。そうなる前に、なんとかこの地で自分なりの方針に基づいた施策を行っておきたいのだが――。
 『どうすれば良いのだ。』執務室の椅子に腰掛け、ティルドラスは頭を抱える。
 彼の部下たちが無能というわけではない。チノーにせよイックにせよオールディンにせよ、おのおの自分の能力を生かしてティルドラスのために最善を尽くしてくれているとは思うし、そのことには素直に感謝している。だが、チノーを例に取ると、すでに方針が決まった個々の案件に対応する能力はずば抜けているものの、考え方に柔軟性がなく、万事について、とかく型にはまった対処をしてしまう傾向がある。結局、全体を見渡して統治の方針を決めるのはティルドラス一人で、時流を読み、情勢を分析し、彼が漠然と持っている理想をはっきりとした形にできるよう手助けしてくれる人物がいない。
 キコックの言葉が今さらのように思い出される。今の自分に必要なのは、天の時と地の利を読み、その中にあって人が取るべき道を示すことができる人物――。
 そんな人物が本当にこの世にいるものなのか。仮にいたとしても、どうやってその人物を探し出せば良いのだろう。「神のお告げか。」彼はため息をつく。
 本当に天帝の使者なら、どことも知れぬ村の祭祀などではなく、直接自分の前に姿を現して告げてくれれば良いのだ。国を安んじ民を救うためにペジュン=アンティルという人物を登用すべし、と。
 ペジュン=アンティル?
 その名前には覚えがあった。どこかで会った記憶もある。バグハート家との戦いの中ではない。それよりかなり前のことで、場所はネビルクトンの宮廷の来客の間。そこで会ったとすれば、バグハート家からの使者だったはず――。
 「思い出した。」ティルドラスは顔を上げる。
 伯爵の位に就く式典の後、各国からの慶賀の使節と一人一人対面し、言葉を交わした。真っ先に思い出されるのはミストバル家の女性武官・ペネラ=ノイ。三か月後にボーンヒルの戦いで、わずか四百の手兵を率いてハッシバル軍三千を壊滅させた人物である。
 彼女の華やいだ才気に比べると多少地味ではあったが、アンティルも印象に残った一人だった。あの時は単なる外交辞令と思って深く考えなかったものの、今にしてみれば、彼の助言はどれも、自分やハッシバル家の未来を正確に見通していた。
 ――伯爵家のご家中には、伯爵の祖父であらせられますキッツ伯爵の時代を懐かしみ、近隣諸国を力で屈服させて過去の栄光を取り戻すことを夢見る方々が少なくないようです。しかしそれは決して実現することのない夢、むしろ亡国への道でございます。伯爵におかれましては、二度と戻らぬ過去の栄光に囚われず、ご自身で新たな道を拓(ひら)くことを心がけられますように。――
 ――もしも近い将来、伯爵が国内で権力を失うようなことがあれば、わがバグハート家を後ろ盾とされることを考えられてはいかがでしょうか。バグハート家にとっても、それが最善の道かと存じます。――
 ――伯爵の言葉・行いを拝見しますに、おそらく、国を安んじ民を救う志をお持ちであろうと察します。しかしそれは伯爵お一人でできることではございませぬ。伯爵が、身分や家柄に囚われずに輔(たす)けとなる人材を広く求められるかどうかが、ハッシバル家の、延(ひ)いては天下万民の将来を左右することとなりましょう。――
 あるいは彼ならば――。ティルドラスは椅子から立ち上がる。
 執務室を後にした彼は、文書庫で帳簿の山に埋もれながら調べ物をしていたオールディンを捕まえて、アンティルのことを訪ねる。「伯爵はそのような流言を信じぬ方と思っておりましたが。」少し意外そうな顔をするオールディン。
 「神のお告げは信じていない。だが、名前に覚えがあった。どのような人物だったか教えて欲しい。」とティルドラス。
 「かつてメイル子爵に諫大夫(かんたいふ)として仕えておりましたが、免職されて宮廷を去ったと聞いております。人物については、顔を合わせる機会がなかったので分かりませぬ。おそらく舅(しゅうと)のジュゼッペは会っているはず。尋ねてみてはいかがでしょう。」
 「アンティル? おりましたな。」オールディンの言う通り彼を訪れてアンティルのことを尋ねるティルドラスに、ナックガウルは頷く。「確かに、馬鹿者揃いのメイル子爵の側近どもの中では、まともな部類だったように思います。ただ、言うことが小難しくてよく分かりませなんだ。それ以上は何とも。」
 そのあともティルドラスは、身分の上下を問わず、バグハート家時代のアンティルを知る者を捕まえては彼のことを訊ねて回る。だが、答えは人によってばらばらだった。
 ――才知は優れていたのかもしれませぬが、とにかく我が強く、自分の意見を無理に押し通そうとしては、メイル子爵の不興を買っておりました。――
 ――いや、あまり出しゃばらず、むしろ謙虚で穏やかな人物であったと記憶しております。才能のことは分かりませぬが、品行方正と申してよろしかったかと。――
 ――二度妻を娶っては二度とも逃げられ、どこぞから拾ってきた娘のような童女に夜伽(よとぎ)をさせておったと聞いております。品行が良いなどとはとても申せますまい。――
 ――祭祀や経典を重んじず、常々、メイル子爵が予言・占いの類を信ずることを諫め、それがもとで子爵の機嫌を損ねることが多かったと記憶しております。――
 ――聞きましたところでは、若い頃に妖術師のもとで修行し、外道の方術を身につけておるとのこと。国に仇(あだ)なす輩(やから)でございます。関わられてはなりませぬ。――
 聞けば聞くほど何が何やら分からなくなり、かえって混乱したままオールディンのいる文書庫に戻って、居合わせたナックガウルとともに一息ついていると、将軍のトゥンガが慌てた様子でやって来た。至急、衣服を整えて謁見の間に来てほしいという。
 「バグハート家第三軍の上将軍であったメルクオ=リーが帰順を申し出て参りました。ただちに引見を。」とトゥンガ。
 「あいつ、まだ帰順していなかったのか。」傍らからナックガウルが呆れたように声をあげる。

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