ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙② 新伯爵は前途多難(32)

第六章 略奪の許可(その6)

 彼らが向かったのは、地下牢の最深部、伯爵家に対する反逆の罪で投獄された者たちが集められている一角だった。分厚い石壁、幾重もの鉄の扉、魔法を無力化する結界など警備は厳重を極め、ここに収監された者たちは伯爵自身による特別の許可がなければ釈放できないとされていた。かつては囚人たちに対する扱いも過酷極まるもので、フィドル伯爵の時代には、些細な罪でここに閉じ込められた多くの者たちが、あるいは無念の涙を呑みながら獄死し、あるいは絶望のあまり自ら命を絶ったという。
 もっともティルドラスの代になってからは、この一角に収監されている者の数は激減し、警備の厳重さを除けば囚人の待遇も他の牢獄とあまり変わらないものとなっていた。
 その地下牢の一番奥まった場所、隣り合った独房の隅でうずくまる二つの人影があり、ティルドラスの足音に顔を上げる。
 「これはティルドラスさま。今日はどうなさいました。」この場所と状況には少々そぐわない、敵意も怖れも感じられない口調だった。
 『蝉』と『蜘蛛』。跡目争いの中で、ダンの命を受けたオーエンに雇われティルドラスの命を狙った、忍群「暗黒風」の二人の忍びである。
 ティルドラスの暗殺をカーヤに阻まれ捕らえられたあと、二人はネビルクトンへと護送され、忍群の本拠地や構成、ティルドラスの暗殺を請け負った経緯などを供述するよう尋問を受ける。しかし二人とも、どんな脅しや暴力にも、さらに自白の魔法を使った尋問にも、ただ「何も覚えていない」を繰り返すだけだった。嘘ではなく、本当に記憶を失っているようなのである。二人を調べた魔術師によると、忍びの世界では秘密保持のため、敵に囚われると同時に重要な記憶を失う呪いをかけておくことがよくあり、おそらくそれによるものだろうという。
 記憶を失い、供述が得られぬのであれば詮議を続ける必要はない、さっさと処刑してしまえ、という声もあったが、釈放と同様、処刑の決定権も握るティルドラスが許可を与えようとしないため、二人はそのまま牢獄に繋がれ続けていた。
 「怪我の具合はどうか。」こちらも平然とした様子で独房に歩み寄りながら、ティルドラスは『蝉』に尋ねる。
 「まだ痛みますな。」少し顔をしかめながら『蝉』は言った。彼はティルドラスの暗殺を試みてカーヤと戦った時に左腕と右の肋骨を折られており、まだ完治していない。「我らは忍び。痛みは耐えられますが、思うように動かせぬのが……。ともあれ、わざわざ良い医者まで遣わしていただいた事には感謝しております。」
 「そんなことを!?」驚いた声を上げるチノー。
 「この間の甜瓜(てんか。メロン)は食べたか。」ティルドラスは続ける。「今年は雨が少ないせいで成りは良くなかったが、夏に持ってきた西瓜よりは上手く作れたと思う。」
 「左様なことまでなされていたのですか!」チノーは呆れ果てた口調になる。「道理で……。お側の者たちが、伯爵が牢を訪れては囚徒たち相手に、まるで友人か何かのように親しげに振る舞われるとこぼしておりましたが……。」
 「別に、全ての囚徒に同じように接しているわけではない。罪のない者だけだ。」
 「罪のない!? しかし、この者たちは、かつて伯爵のお命を狙った大罪人ですぞ!?」
 「彼らは命令に従って働いたまで。それを罪とは言うまい。」そしてティルドラスは二人の方に向き直り、「お前たちに仕事を頼みたい。」と、少し険しい口調になって言う。「バグハート家との戦いでツクシュナップにいるリーボック=リーが、略奪の是非を巡って味方の中で孤立し、闇討ちに遭いそうな情勢となっている。私自身も近くツクシュナップに向かうつもりだが、それまでの間、リーボックの傍らにあって手助けをし、身を守ってやってほしいのだ。」
 「我らが逃げるかも、とは思われぬのですかな?」と『蜘蛛』。
 「逃げても構わぬ。」とティルドラス。「もともと、それが報酬の代わりだ。ただ、その前に、役目だけは果たしてほしい。受けてくれるか?」
 二人の忍びはしばらく考え込んだあと、ややあって「お受けいたしましょう。」とうなずいた。
 「受けてくれるか。礼を言うぞ。――鍵を。」ティルドラスに促され、牢番が扉の鍵を開ける。思わず腰の剣の柄(つか)に手をやるチノーだったが、二人は別に襲いかかってくるような様子もなく、のっそりと独房を出ると、大きく手足を伸ばす。
 「お前たちが持っていた忍び道具は上に用意させてある。こちらだ。」そう言って、ティルドラスは階段の方へと歩き出す。
 地上はそろそろ夕暮れ時にかかろうかという時刻だった。牢獄の一階にある詰め所で、取締役に自筆の文書を渡して釈放の手続きを取るティルドラス。その間に、『蝉』と『蜘蛛』は渡された忍び道具を身に着けて準備を調える。
 身支度を終え、ティルドラスに向かって「では。」と一礼したあと、二人の忍びは戸口から外へと出て行く。彼らに続いて戸口をくぐるティルドラスとチノーだったが、その時にはもう、二人の姿はどこにも見えなかった。
 そのあと宮殿の執務室に戻り、ティルドラスは「明日、シュマイナスタイのアーネイラ姫を訪問するためキクラスザールに出発する。叔母上にもお知らせせよ。」と命令を下す。
 にわかの命令に周囲の者たちが慌ただしく走り回る中、ティルドラスは内帑金(ないどきん)を管理する従者に、明日の旅に携行できるよう、手元にある全ての金貨・銀貨を箱詰めしておくよう命じる。
 「あの……、両替商のグフバルから借りております金の返済期限が明日でございまして、その内帑金をお持ちになりますと、払う金がなくなりますが……。」おずおずと進言する従者。
 「払えぬとどうなる。」
 「伯爵お使いの寝台が担保になっております。払えねば差し押さえとなります。」
 「そうか、よし。」ティルドラスは事もなげにうなずいた。「では持っていってもらうが良い。私は取りあえず軍用の折りたたみ寝台を使う。」そして彼は周囲の者たちに向かって声を張り上げる。「出発は明日の早朝。怠りなく準備せよ!」

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