ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(4)

第一章 キコックの助言(その4)

 新年は新年でティルドラスは多忙である。元日には夜明け前から身を清めての祭祀が一日がかりで行われた。翌日には新領土の有力者たちを招いての年賀の儀式が宮廷で開かれ、略式ながら彼らをもてなす宴席も設けられる。列席者の中にはメイル子爵の殺害に指導的な役割を果たした侠客・マストバーグ一家の当主の姿もあった。
 こうした宴席は、戦国の殺伐とした気風に加え、周囲に虚勢を張ったり君主の度量を試したりしようとことさらに無作法な態度を取ってみせる者も多く、風雅とは程遠いガラの悪いものであったと『ミスカムシル史大鑑』は伝えている。特にティルドラスのように、若年の上、本国でも実権を握れぬまま新領土の有力者たちの機嫌を取らねばならぬ場合はなおさらである。それでも彼は、海千山千の列席者たちの探るような視線の中、飲めない酒に形だけ口を付けながら、あくまで物静かに客たちの相手をするのだった。
 年明けから数日が過ぎ、そうした行事も一段落ついた時に、チノーの師であるキコックが、ふらりとマクドゥマルの宮殿に現れる。
 無位無官とはいえ在野の賢者として名を知られた人物である。チノーとともに自ら彼を出迎えたティルドラスに、キコックは言った。「チノーの伝手で何か面白いものでも見せてもらえぬかと、子爵家の宝物庫を覗きに参りました。お許し願えますかな?」
 「ご一緒してよろしいでしょうか。私自身も、まだ宝物庫を検分しておりません。いろいろとご教示いただければ幸いです。」うなずくティルドラス。
 宮殿の一角にある宝物庫の扉が開かれ、彼らはその中に入っていく。「これは四百年前のものと伝わる銅器。こちらがシキー=ゾゾバの書を額にしたものでございます。メイル子爵は書画を好まれず、こうしてしまい込まれておりますが。そちらはテュール=カンツ『治国要諦』の写本。」宝物庫という華やかな響きとは裏腹に、薄暗くかび臭く冷え冷えとした建物の中で、係の役人が棚に並んだ品々を指し示しながら言う。「この棚には、かのパドローガルの銀器が保管されておりましたが、メイル子爵がユックルの城への籠城の際に持ち出したまま行方知れずとなっておりまして、残念ながらお目にかけることができませぬ。」
 しかしキコックはそれには興味がないらしく、棚に並ぶ他の品物に目を走らせながら、時折、その由来や価値をティルドラスたちにかいつまんで解説するのだった。
 宝物庫の検分が終わって外に出た時、ティルドラスが出し抜けにキコックに問いかける。「お探しの品は見つかりましたか?」
 一瞬、虚を突かれたような表情がキコックの顔に浮かぶ。「いや、特に何も……。なぜ、そのようなことを?」
 「いえ、あるいは何かお目当ての品があって、それを探しておられるのではと思いまして。違ったのでしたらご容赦下さい。」とティルドラス。二人の傍らで、チノーは少し戸惑った表情を見せる。キコックに師事して十年ほどになるが、あのような表情を見たのは初めてだった。
 そのあと私的な来客を応接する部屋に通され、ティルドラス自身から茶菓の接待を受けるキコック。しばらく当たり障りのない会話が続いた後、頃合いを見計らってティルドラスが切り出す。「よろしければ、今後の国政について道をお示し願えますでしょうか。」
 「率直に言わせていただきます。今、伯爵が望んでおられるのは、摂政一派の軛(くびき)を脱して国権をご自身の手に取り戻すこと、これではございませぬか?」
 ティルドラスは答えない。
 「しかし残念ながら、摂政一派の勢力はお国の各所に深く根を張っております。一朝一夕にそれを挽回することはできますまい。」キコックは続ける。「もともと摂政は、先代・フィドル伯爵に疑われてメトスナップに幽閉される以前から十年近くにわたって、自身の勢力を宮廷の内外に築き上げて参りました。それに対抗するためには、伯爵も同様に、時が訪れるまで隠忍自重しつつ、ご自身の勢力を国の内外に広めることをお考え下さい。」
 「さしあたって心がけるべき事は?」
 「例えば新たに併せたこのバグハート領には、まだ摂政の力は及んでおりませぬ。この地に善政を敷き、民心を得れば、いずれ摂政一派と対決する際に大きな力となるはず。しかしそれは伯爵お一人の力で成し遂げられるものではございません。まずは人を、それも一国の統治を安心して任せられるだけの人材を得ることが必要となります。それを心がけられますように。」
 「もとより私は愚か者ですが、武ではリーボック=リー、サクトルバス、そして文事ではチノーが力になってくれています。キーユ=シーエックのように友人として良い助言をしてくれる人間もおりますし、ナガンも成長すればおそらく私の力になってくれるでしょう。バグハート領を併せたことで、イック=レックやツェンツェンガなどの人材も得ることができました。それでもまだ足りぬということでしょうか。」
 「チノーの有能さは師として保証いたします。」キコックは言う。「泰平の世であれば令尹(れいいん)・宰相として国政を委せることもできる人材です。リーボック=リーどのは数十万の大軍も自在に扱うことのできる名将の器ですし、サクトルバスどのの剛勇は諸国のあまたの勇将の中でも比べられる者は少ないでしょう。あなたが今名前をあげた人々は、確かに皆、ひとかどの人傑、国の支えとなる人物です。しかし、今、伯爵に必要なのは、天の時と地の利を読み、その中にあって人が取るべき道、国の未来の姿を示すことができる人物。残念ながらチノーの才はその域には達しておりませぬ。」
 伝説では、この時キコックはティルドラスにこう言ったことになっている。――今、世人が天下の三傑と呼び慣わしているのはデクター家の軍師・イマム=カンスキーとトッツガー家の尚書令・アルフォンゾ=ゾーファン、そしてフォージャー家の丞相・クウォーティン=コダーイの三人である。だが実は、真に天下の三傑と呼ぶべき人物は他にいる。その一人を得れば国を安んじ、二人を得れば覇者となり、三人全てを得れば天下を掌中に収めるであろう。幸い、その一人がこの近くに住んでいる。なぜ、行って会おうとしないのか。残りの二人も、やがてあなたの前に現れるであろう――。
 本当だろうか? おそらくは後世の作り話だろう。実際、ソン=シルバスも『ミスカムシル史大鑑』の中で、この話は当時の公式記録には一切みられず、四十年ほど後になって民間の文献の中に現れるようになったものだとしている。
 「そのような人物が、この世にいるのでしょうか。」ため息をつくような口調でティルドラスは言う。「先生は私を輔(たす)けては下さらぬのでしょうか?」
 「残念ながら、訳あって、お仕えすることは叶いませぬ。」
 「その訳とは?」
 「それも申せませぬ。」とキコック。「ただ、誤解されぬよう申し上げておきますが、私自身は伯爵を大いに評価しております。今の世に、戦に勝って領土を広げ、諸侯や民に威を奮う君主は数多くおります。しかし乱世を鎮(しず)め民を救う器量と志(こころざし)を持った君主は、おそらく伯爵お一人でしょう。そのためにも、伯爵が大志を遂げられますよう、陰ながら見守らせていただきます。」
 「!」目を見張るティルドラス。その彼に向かって静かに一揖(いちゆう)し、キコックは席を立つ。
 応接室を退出し、チノーと並んで門への道を歩きながらキコックは言った。「不満そうだな、チノー。」
 「いえ、そのようなことは……。」かぶりを振るチノー。だが、その表情には明らかに不満げな色が浮かんでいた。
 「念を押しておくが、儂はお前が無能だと言っているわけではない。確かにお前はよくやっている。ティルドラス伯爵のもとに舞い込む膨大な雑事を一手に引き受け、大過なく処理している。だが、お前の才とはつまり、既存の価値観、すでに出来上がった社会の枠の中にあって力を発揮する能吏の才だ。一方でティルドラス伯爵の真価は、お前が考えているよりはるかに遠大なところにある。お前では、伯爵を補佐することはできても伯爵を導いて覇業を成し遂げることはできまい。だからこそ、それができる人物が伯爵には必要なのだ。」
 「………。」師の言葉にチノーは唇を噛む。
 「この際だ。お前にも助言を与えておこう。」彼の様子を見やりながら、キコックは諭すように続ける。「遠くない将来、お前をはるかに超える才を持つ人物が伯爵のもとに現れ、お前以上の信任を得るかもしれん。だが、たとえそうなったとしても、決して妬んだり争ったりするでないぞ。お前はお前でティルドラス伯爵に必要な人材なのだ。驕りと虚栄心を捨て、自分なりの居場所と果たすべき役割を謙虚に見定めることこそ、今のお前に必要なことだろう。」
 正直、自分はこの時、師の言葉が意味するところを理解できずにいた。今にして思えば、それが悔やまれる……。後にチノーはそう語ったという。
 さらに数日後、ネビルクトンの宮廷から摂政・サフィアの手紙がマクドゥマルへと届く。新年にあたって占い師が年の吉凶を占った結果が出たので、今後の行動の参考としてほしいという。
 ――冬終わりて春来たるも、牛、泥中(でいちゅう)に足悩(あなゆ)み、道なお遠し。先んじれば災いに遭い、人に従えば難を免(まぬが)る。客を招くに大吉。旅するに吉。縁談に吉。家を治めるに難あり。兵事に凶。難は北東に起こり南西に至る。心して身を慎むべし。――
 こうした占いや讖言(しんげん、予言)の類を嫌っていた合理主義者のソン=シルバスは、『ミスカムシル史大鑑』卜筮誌(ぼくぜいし)の中で、少々むきになって、この占いが的中したとする世間の見解に反論している。しかし皮肉にも、ソン=シルバスがこの話を大きく取り上げたことで、この占いは、この年のティルドラスの運命を予言したものとして広く知られるようになったという。
 いずれにせよ、確かにこの年――ミスカムシル暦2821年はティルドラスにとって、さまざまな面で重要な転機となった年である。だが、彼自身もこの時はまだ、そのことを知るよしもない――。

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