シェアの楽しみは「自分を知ること」

「シェア・分かち合い」こそがこれからの時代の共通言語の記事の続きになります。みんなと感想や感じたことをシェアする楽しみってどこから来るのかな?と考えてみたところ、「自分の思いを言語化」したり、「他の人の話を聞く」ということで、「自分を深く知る」ことができるようになるからではないかなと感じました。

自分の思いを誰にも打ち明けられない状況、ブログなどで思いを綴ることもできていない状況だと、「自分がどう感じているか」「どんな感覚を得ているか」ということに対して、センサーがどんどん鈍感になり、ゆくゆくは何も感じないようにしてしまうのではないかな、と思います。そして抑圧された感情が知らずにたまって病気になる。自分が何をしたいか、何をしていると楽しいか、何をするのは嫌か、といったことがわからなくなってしまうと、目の前のことでいっぱいいっぱいになってしまい、「自分の人生を創造する」という意識が持てなくなってしまいます。

自分の感想や感覚を他人とシェアするために言語化することで、「あぁ、そういえばこんなことを思っていた、こんなことを感じていたんだ」ということに気づき、自分を取り戻していけるということはあると思うんですね。しゃべっているうちに気づくとか、改めて認識するということは、私自身思い返してみても結構あります。それくらい、誰かに思いをシェアするということは生きるために必要不可欠な営みなのではないかと思います。

それは、「一人ぼっちで寂しい、孤独で寂しい」という思いにもつながってくる気がします。また、たくさんの人と一緒にいても孤独感を感じることがある、むしろたくさんの人といる方が孤独、という話をよく耳にしますが、それも結局「シェア感」がないため、つまらない、満たされないということだと思います。自分の思いを打ち明けられる場ではない、相手も打ち明けていないうわべだけの会話、つまりそれは自分自身を深く知ることにつながっていかない場であるため、つまらないし、かえって孤独感を増幅させるだけなんですね。

だから、孤独というのは人数とは関係なく「自分自身のことがよくわからないという寂しさ」なのではないかなと思います。また距離も関係ないかもしれません。同居の家族には心を開けないけれど、ネットで同じ趣味を持つ相手とはオンライン上で何でも話せる、とかよくありますよね。自分も相手も本音で腹を割って話せる、分かち合えた時に、お互いが楽しく満たされた気持ちになるのでしょうね。

他の人の話を聞くと、同じことを体験しても違った感覚を得ることがわかり、面白いなぁと感じます。同じ香りを嗅いでも好きな人と嫌いな人がいるとか、同じ映画を観ても着眼点が違ったりとか。人は誰しも自分の感覚しか感じることができないので、知らず知らずに自分スタンダードになっています。「そういう見方、感想もあるのか!」ということは、他人がいて初めて分かることです。多種多様な視点を得ることにより、自分というものが際立っていく。それは、複数の師を持つことの大切さにも書いたとおり、師匠(他者)という自分の鏡と接することによって自分を深く知ることができるようになる、ということと同じことです。そういう意味では、自分という存在って、すごく相対的なものというか、他者との関係において初めて成り立つような気もしますよね。そしてもっと深くなると自分と自分の中のもう一人の自分との相対関係の話にもなるのですが、ちょっと哲学的な話になるのでここらでやめます。

人が生きていくうえでの潜在的な欲求の一つに「自分を知ること」ということがあり、そのためには他者との関係性が重要なわけです。「自分のことがよくわからない」から孤独や寂しさを感じるのだと思います。現代で盛んに「シェア」という概念が広まっているのは、「自分を知り、自分らしく生きたい」という欲求が社会全体で高まっていることの現れであり、それは人として、社会として、健全な時代の流れなのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?