意識的に「選択」することで自立する

今日からは新年度ですね。フリーで生活していると曜日感覚や日付感覚が薄くなるものです。今日電車乗ったら黒いスーツの人いっぱいなのだろうな。不安と期待でいっぱいの4月1日、同じ職場で次年度を迎えられる人は何割くらいなのでしょうね。3年後の4月1日はどこで何をしているでしょうか。

人生とは選択の連続であるとはよく言いますが、まさにその通り。すべてが選択です。どの学校に入るか、会社に入るか、誰と結婚するか、どこに住むか、夕飯で何を食べるか、など日々選択しています。人はみな「自由がない、不自由だ、制限されている」と思いがちですが、実はそんなことなくて、いつも選択しているわけですね。そうは言っても「会社に行かないといけないんだから不自由だ」と思われるかもしれませんが、嫌なのに働き続けるというのはその方の選択ですし、嫌なら辞めればいいだけの話。法律で罰せられるならともかく、仕事については完全に自由に選べるわけです。私たちはピラミッド社会の奴隷ではあるけれど、人々が洗脳された結果、自ら進んで奴隷になっているだけであり、嫌なら辞めるという選択肢があるのはある意味恵まれているなぁと思います。

ある出来事に対し、どのように感じ、どのような行動を選択するかというのは人それぞれですから、完全に自由です。良い悪いもありません。ただ、その選択が、その方の本心からの選択なのか、相手や世間の目を気にしての選択なのか、その辺りが重要なのだと思います。同じ行動をとるにしても、動機づけや理由によって大きく意味合いが変わってくるでしょうね。常に自分の本心から選択している人は、人生の充実度が高いでしょうし、反対に本心での選択をできないことが多い人は、いつもつまらないな、と思いながら日々生きていく傾向にあると思います。それは人生の舵取りを自分以外の誰か(親とか世間とか)に委ねているとも言え、自分の人生を生きていないことになりますね。

意識的に「選択」する練習をしていけば、徐々にその感覚が心地よくなり、より大きなことも選択できるようになると思っています。日々小さなことからで良いんです。私はずっと食べ物については意識的に「選択」していて、頭では安い食材を買えば食費も浮くし家計には良いと思うけれど、添加物や農薬を使わない安全だけど少し高い食材を選ぶようにしています。それは心も身体も喜ぶ選択ですし、健康にも良い。世間の価値観とは逆行するようだけれども、それでも自分の意思でそうしている、ということが、自分への信頼、自分への自信につながっていく気がします。それはどんな選択が良いとか悪いではなく、とにかく「自分軸で選択する」ことがカギなわけです。最初は食べ物から、徐々に休みの過ごし方であるとか、もっと大きなお金の使い方であるとか、そういったことにも広げていくと、人生を動かすレベルの「選択」もできるようになる、そんな気がします。

2015年1月に病休で1か月休むことにするという「選択」、自然療法を本格的に学ぼうという「選択」、7月に一人暮らしを始めるという「選択」、10月に退職するという「選択」、自分で新しいことを始めようという「選択」。これが私のたどってきた選択の過程。やっぱり、徐々に大きなことを選択できるようになっています。

誰かに選択権を委ねていると、自分の人生を生きられないまま、この地球での人生が終わってしまいます。社会で疲弊している人は、自分以外の誰かに選択権を与えてしまっている人がほとんど。それでうつ気味になって薬飲んでさらに悪化、という人が多いのでしょうね。そこですべきは薬を飲んで無理して続けることではなく、人生の選択権を自分に戻していくことだと思います。自分の好きなように人生を想像し、創造すること。それこそが人間の醍醐味であり、地球に生まれてきた意味の一つではないかなと思っています。

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