「その先の○○」のために今を犠牲にする生き方

前回の就活や婚活も、「偏差値」至上主義?という記事でも少し触れましたが、幼い頃から人と比べられ、競争することに慣れすぎた私たちは、あとあとでいい思いができる(と信じている)ことをするために、今を犠牲にしてそれに捧げるような生き方をしているものだなぁと感じます。いい会社に入るためのいい大学、いい大学に入るための高校生活などなど、こういった類のものは無限にあります。「その先の○○」のために生きているのが当たり前になり、ふと気付くと「何のために生きてるんだろう?」状態になることも多々あるのではないでしょうか。

今月はオリンピックの話題が日本中を席巻していましたね。昔も今もスポーツにはあまり関心がなく、「へー、メダルとったんだ」くらいの関心事でした。運動嫌いでヘタレな私はこういったスポーツの祭典の折々に、「スポーツ選手ってホント大変だな」と思ってしまいます。メダルを取れたらそれは最上の喜びだろうとは思うけれど、それまでがあまりに辛すぎて、地獄のような日々だなと想像するのです。体力的にも精神的にも極限まで追い詰められて、それで結果に結びつけば報われるものの、メダルを取れるのは3人(組)までという厳しさ。1位を期待されている人は、3位でも残念、みたいなことを言われてしまったりもします。嬉しい、喜びに包まれるのはほんの一瞬で、(競技)人生のほとんどが苦しみの中にあるのではないかと想像してしまいます。

話題はかわって、働く女性と子育ての話。保育園に預けて働く女性が増えたのは、教育費の増大とも関係があるという話を大卒も共働きも、「当たり前」になると苦しいという記事に書きました。それは「働かなくても今の生活が何とかなるとしても、今後の子どもの教育費が心配だから今の職(=収入)を手放すわけにはいかず、だから復帰しなければならない」ということですよね。そういう方がすべてではないとしても、少なからずいると思います。これも「その先の○○」のために生きている例かなと思います。

現実的にこういった考え、選択というのはよくわかります。しかし、仮に子どもが重病を患っていて、余命が1年と言われていたとしても、同じ選択をするのでしょうか。昨今、有名な俳優の方が急死されたというニュースもありましたが、本当にいつ何が起こるかわからないし、自分や周りの人が明日も来月も来年も同じように生きているという保証はありません。私もこのことをたまに忘れそうになるので、「明日死ぬかもしれない」と自分に言い聞かせながら生きていたりもします。先のことを考えれば私が公務員を辞めたのは愚かな選択だと思う人もいるかもしれませんが、「明日死ぬかも」と思ったときにずっとあの仕事を続けることを想像するとめまいがしそうでした(笑)。今は「明日死んでも悔いのない人生を」という気持ちで日々を生きているので、自分の人生に責任を持てるようになりましたし、今後大変な目に遭ったとしても、誰のせいにすることもありません。

「その先の○○」のために生きることが当たり前になりすぎて、ちょっとスピリチュアルをかじった人が「今に生きなさい」と言われて戸惑うのもよくわかります(笑)。最近は(その先の)何かのための活動を「○活」という言葉で表現するのが流行っている(?)ようですが、そのどれもが苦しみをともなうもののように思います。高い目標に向かって生きるのも、将来を見据えて生きるのも、何か目的のために活動するのも悪いことだとは思いませんが、「明日死ぬとしても同じことする?」「夫や子どもが余命わずかだとしても今の人生を送る?」「本当に大事なことって何?」といった問いかけをし続けることで、生き方が変わってくることもあるかもしれません。

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