犯罪者を無条件に責められる?

少し前の話、先日10月31日のハロウィンの日に所用で渋谷に出かけていたところ、案の定たくさんの仮装した人々とすれ違いました。ここのところ、抑圧とその反発心から非行や犯罪に走ることがある、といったことを書いていたので、このハロウィンの仮装の人々もそういった社会の抑圧と無縁ではないんだろうなと思いながら足早に駅の改札へと向かいました。ハロウィンは悪魔崇拝の恐ろしい儀式が起源にあるということを知っている私は全く関心を寄せないイベントですが、あれだけの人が仮装して夜の街に繰り出すというのは、ある意味日本人らしくないけれど、普段はおとなしく真面目な国民性の裏返しなのかもしれません。

家庭や学校、職場、社会から抑圧されている人が、その鬱屈した気持ちを発散するために、年に一度のハロウィンの日にはっちゃけて仮装するくらいは、まだかわいいものなのかもしれません。最近は、芸能人の息子の覚せい剤逮捕ニュースくらいから始まり、信じられないような凶悪事件に至るまで、犯罪を犯してしまった人について思いを馳せることが多いです。金、地位、名誉を追い求める傲慢さのあまり転落する企業などは自業自得だな、と思えるのですが、犯罪者についてはどうも同情してしまうというか、そうしてしまうに至った心の闇みたいなものが気になってしまうことがあります。なんというか、他人ごととは思えない感覚があるんですよね。

私の大好きなミュージシャンや、世の中で活躍するアート系の人々の中には、「一歩間違えれば犯罪者だったんじゃ…」と思うような人がいないこともありません。ひどい家庭で育ったり抑圧されたりして、鬱屈した気持ちがあったとしても、それをうまく芸術的・創造的な活動に昇華できた人(もしくはスポーツでもいいです。ボクシングとか。)は世の中で称賛され活躍することもあります。その気持ちが自分を殺すような方向に向かってしまった人は、犯罪者になってしまうこともあり得ます。その分岐点でどうするか、どんな人に出会うかが「運」なのかもしれませんが、紙一重な部分もあると思うんですよね。

覚せい剤に走ってしまう人も、凶悪犯罪を起こしてしまう人も、絶対に心が豊かで幸せな人ではありません。間違いなく荒んだ心、常に苦しみの渦中にあったはずです。生まれたての赤ちゃんを想像してみると、どの子もピュアで、生まれた瞬間から犯罪者ということは考えづらいです(もともと魂が悪魔の子である人もいる的な考え方をする人もいるかとは思いますが)。生まれてからその年齢になるまでの間の外部からの影響において、そんな心の闇を抱えるようになってしまったのは通常は明らかかと思います。まずは心の闇があって、それが人を非行や犯罪に走らせるのだと思うのです。

であれば、犯罪を犯して加害者となってしまった人であっても、もともとは被害者なのかもしれないと見ることはできないでしょうか。外部の何かによって心の闇を抱えてしまった被害者。その何かというのが家庭なのか(家庭環境は100%影響を与えていますが)、学校なのか社会なのかというのは特定できるわけではないですが、あらゆるものすべてと言って良いと思います。私自身も一歩間違えれば犯罪者になっていたかもしれないし、これから犯罪を犯して逮捕される可能性は0ではありません。そう考えると、犯罪者を無条件に責めたてたり、とんでもないやつだ!と切り捨てることはできないなぁと思ったりします。もちろん、そうは言っても身近にいたら避けますけどね。

犯罪を犯してしまった人は、そのしてしまったことに対しては悪いことなので償う必要があるけれども、私たちはそれを責められるのかという観点もやはりあると思います。あらゆる社会の抑圧や閉塞感と、誰もが抱えるそれに伴う苦しみがギュッと濃縮されたものが、犯罪者として外の世界に現実化しているだけなのではないかと感じます。苦しい時にコーヒーやお酒に依存する人、ゾンビゲームで敵を殺して楽しむ人は、覚せい剤使用者や凶悪犯罪者と共鳴する部分が全くないと言えるのでしょうか。人々が犯罪者を無条件に責めてしまうのも、自我の肥大による分離感が生んだ意識の現れだなと感じます。

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