本当に愛したいものに突き進む恐れ

昨日、ひょんなことから有名な古典作品、ダンテ『神曲』に触れる機会があり、あらすじなどを読んだりしていました。話が難しすぎてあらすじを読んでも正直よく理解できないのですが、主人公のダンテが、たった二回しか会ったことのないベアトリーチェという女性への愛が軸となった作品らしい、ということはわかりました。ダンテはベアトリーチェに激しく恋い焦がれるのですが、アタックすることもない間に彼女は別の男性と結婚し、24歳の若さで亡くなってしまうのだそうです。

なんというか、恋愛において、本当に好きな人ほどアタックできないとか気軽に話せないとか告白できないみたいなことってよくあることで、あれは本当に何なんだろう?と思います。人生で2番目に愛する人と結ばれるのが幸せだ、的なことを言う人もいますが、それってどうなんですかね?好きなら素直に突き進めばよいものの、何らかの「恐れ」があってストッパーをかけられてしまうのでしょうね。その「恐れ」とは何に対する恐れでしょう?相手に拒絶される恐れ、うまくいった後に失う恐れ、相手が奪われる恐れ、相手が死んでしまう恐れ、ひたすら焼きもちを焼いてしまう恐れ、深く愛し愛されることへの恐れ、自分が変わってしまうことへの恐れ、自分が深く傷ついてしまうことへの恐れ…うーん、もっとありそうですけどそのくらいが主なところでしょうか?

数日前に書いた、明日死んでも本当に悔いがない人生をの気持ちが高まってくると、そんな恐れを乗り越えてでもやっぱり一番愛する人に向かっていくのが良いのではないか、と思うようになりました。ダンテの気持ちはすごくよくわかるし、世の中的にもそういう人は多いと思うのですが、それでも本気で後悔のない人生を送りたいと思えば、傷ついてでもベアトリーチェにアプローチしたほうが結果がどうであれすがすがしいと思うんですよね。女は愛された方が幸せだ、とかこれまたいろんなことが世に言われていますが、本当のところは「愛されるより愛したい」(by KinKi Kids)ですよね(笑)。男女や個人でも違うのかもしれませんが、女性は基本は愛したい存在なので、私はKinKiの曲に同意します(笑)。なんというか、人を深く愛することへの抵抗とかわだかまりみたいなものがあるとしたら、それって何だろう?ということを自分で見つめていくのってすごく大切だなと思います。おそらく掘り下げていくと(主に幼少期の)親子関係の問題は出てくると思いますね。自信とか自己肯定感とか自分を愛せるかどうかって、親子関係がほとんどの肝になっていますからね。自分のことを愛せない限り、他人のことも愛せないので、他人を深く愛すのに抵抗があるとしたら、自分のことを深く愛することにも抵抗があるということです。やっぱり他人は自分の鏡なので。

恋愛とか人間のことだけでもなく、対象は何であっても同じことかなと思います。例えば、今の仕事を本当に愛してやっていますか?ということ。毎日のことですから、仕事自体にも愛をもって取り組みたいものですよね。もし今の仕事に愛をもてないとしたら、どんなことだったら取り組めそうか?とか、本当はこんなことがしたいんじゃないか?とか、いろんなことを見つめ直すことができます。本当に一番やりたいこと(愛を注げる仕事)があるはずなのに、突き進めないのはなぜか?どんな恐れがあるのか?そんなことを考えると新たな発見がありそうです。自分が満たされ、幸せになることに遠慮はいりません。自分が愛を持ってできる仕事、深く愛せる人ってどんな感じだろう?とイメージして、「今ここ」で楽しい気持ちに浸ってみようと思います(笑)。

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

「note見た」で友達申請→村上遥のFacebook

Twitter再開しました!→Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?