「金持ち・貧乏」の二元論を俯瞰する

今日は知人が出演しているお芝居にご招待されたので、日中出かけてお芝居を観劇してきました。お芝居の中で「貴族VS貧乏人」の二項対立が出てくるのですが、絵に描いたような二項対立の構図を見ていて、今のこのお金社会の現実を俯瞰して見ているような気分になりました。他人事として「金持ち・貧乏」の二元論をとらえると、実にくだらないし、なんでこんなことで人々は喜んだり悲しんだり、時に人を殺したり自殺したりしてしまうんだろうと改めて思いました。物語の登場人物を外から眺めると、実に冷静に、滑稽だなぁと思ったりしますよね。

当たり前ですが、お芝居や映画、ドラマは他人事として見ていますよね。感情移入はするけど、お芝居の登場人物が死んだりしても、それをずっと引きずってしまったりすることはないわけで、あくまでも自分のこと、当事者としてではなく、他人のことだという意識でとらえているはずです。日常生活には何も関係ない、支障をきたさないですよね。外から見ている分には、それに振り回されることはないし、娯楽として楽しめるものです。

スピ系の本やサイトを見てみると、今私たちが暮らしているこの三次元社会も同じことが起きているということがわかります。実は私たちが現実だと思って暮らしているこの社会は、私たちにとってのお芝居、映画、ドラマと同じで、「本当の私(仮)」(魂とかそういう次元の話)が超リアルに体感できる「身体」を通してお芝居、映画、ドラマを楽しんでいることと同じだ、というお話。わかりづらいでしょうか?この世界の当事者だと思って、外の世界に振り回されていると、辛いことが多々あるわけです。それはつまり、今日のお芝居の登場人物が「貴族VS貧乏人」の二項対立に振り回されて、辛い思いをするのと同じこと。もっと大きな視座で違う次元から見たら、今の私たちもお芝居の中の世界で起こることに振り回されていると言えるわけです。それを「本当の私(仮)」は娯楽として楽しんでいる、ということですね。あらゆる方面において、ミクロとマクロの相似構造は無限に続いていると思っていますが、「物語の登場人物とそれを眺める人物」の構造もおそらくもっともっと多次元に渡り続いているのだろうなと思います。マトリョーシカみたいな感じですね。

ちょっと脱線しました。つまり、外の世界に振り回されて、特にお金のことに関して「金持ち・貧乏」の二元論であったり、上下の身分であったり、冷静に考えると実にくだらないことに「当事者意識」を持ちすぎるあまり、そのことに一喜一憂して感情が乱れてしまうことが非常に多いことに改めて気づいたわけです。物語の中に入り込みすぎて、それが物語であると気づかずにあたふたしてしまう、それが私たち。「物語=夢」と表現しても通じますね。超冷静に俯瞰して見ると、実に滑稽な話だと思いませんか?外の世界に振り回されるとこのことに気づけなくて、私も気を抜くとすぐにお金にやられて、不安になったり落ち込んだりしますもん。

今の現代社会において、最も人々を苦しめているのは資本主義、ピラミッド社会であり、どこへいっても上下関係や支配・依存関係、優越感、劣等感から逃れることはできないわけです。じゃあ昔は?というと、「歴史」と言われるここ2000年くらいを振り返ってみても、資本主義や階層社会がない時代はありませんでした(江戸は平和だったという話もあるけど)。お手本とする社会が「有史」にはないと。私が縄文時代に強く惹かれる理由もその辺りと関係しています。私がnoteのテーマの一つとして掲げている「調和」「共同創造」「人とのつながり」「協力」「助け合い」「おすそわけ」の意識を基盤とした社会の実現には、有史いまだかつてない壮大なパラダイムシフトが必要不可欠です。なんてったって「有史初」ですからね。私の「身体」を通して三次元の娯楽を楽しんでいる「本当の私(仮)」は、この大転換期の到来を、今か今かと食い気味に待ち望んでいるような気がしてならないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?