つい、他人を変えようとしてしまう時

ほとんどの人は「愛=条件付けの愛」と(潜在レベルで)認識していて、自分の願望を相手に投影すること、相手を自分の思い通りにすることが「愛」であると錯覚しています。いわゆる恋愛や夫婦、親子関係などの親しい人の人間関係においては、この傾向がより顕著になり、相手が自分の思い通りにならないと不満を感じたり、子どもを自分の望むような子に育てようとしたりして、双方が苦しんでいるように見えます。頭のエゴというのは本当に人間を苦しめるものだなとつくづく思います。

親しければ親しいほど、相手の良い面も悪い面も目に付くもので、つい、他人を変えようとしてしまうことも多いです。キツイ命令口調になったり、ぶーぶー不満を言ったり、思い通りにならなくていじけたり、怒り狂ってヒステリーになったり…人によって表現の仕方はそれぞれでしょうが、何かしらの行動パターンはあると思います。私も親に小さいころから相当干渉されてきましたし、今でも「口うるさいなぁ。そうやって言われるからやる気なくすんじゃん…」と思ったりするものです(笑)。他人から口うるさくギャーギャー言われて、それで素直に行動を改めることなんてないのに、人間というのは本当に学ばないもので同じことを何度も繰り返して人間関係を悪化させています。相手を変えようとすることは、「相手は今のままではだめだ」という否定のメッセージですからね。他人に口うるさく言うことは、意味がないどころか逆効果であることにいい加減気づいていただきたいものです。もちろん自分もですが(笑)。

かといって、何でもかんでも相手の意向通りにして、自分を押し殺して我慢すればいいというものでもなく、それはそれで相当ストレスが溜まり、いつか不満が爆発して取り返しのつかないことになるのも目に見えています。夫婦やパートナーシップにおいて、一人が好き勝手、相手を振り回して余裕こいて生きていると、知らぬ間に相手の心は離れていて、突然去っていく…というのはよくあるパターンのように思います。「大切なもの」に失ってから気づく愚か者という記事にも書きましたが、本当に大切なら双方に歩み寄って良好な関係を維持するように意識づけていく必要があるし、そのことに気づかないと傲慢なエゴは取り返しのつかないレベルまで肥大してしていってしまうものです。

つい、他人を変えようとしてしまうと感じたときは、口うるさく言う前に「他人を変えようとしている!」ということに気づいて、建設的なコミュニケーションに舵取りをし直さないといけません。自分の意見は意見として、自分の気持ちは気持ちとして伝えはするけれども、それを相手に強要せず、相手の意向を尊重する姿勢が大切だなと感じます。他人と自分の行動パターンや思想、信念、価値観、性格など、違うのが当たり前で、自分には理解できないなぁと感じることはどうしたって多々あるものです。自分にとっては納得できないことであっても、その人がそう思う(行動する)に至った背景があるわけだし、それこそ家庭環境や親の影響でそのような人格になった可能性が高いです。相手はただ苦しんでいるだけかもしれないし、「無条件の愛」を欲するがゆえにそのような行動をしてしまう、ということもあるかもしれません。

前回、大事なのは「無条件に愛する」意識づけという記事を書きました。こういう意識で生きることは本当に大事だと思っていて、他人を変えようとしてしまったときこそ、相手を「無条件に愛する」意識づけをする練習だと思って自分自身を見つめていきたいと感じています。むしろ、他人を変えようとしてしまう時というのは、それに意識的に気づいていけば自分を大きく変容させられるチャンスとも言え、乗り越えるごとに自分や他人に対する愛の意識が拡大していくものと思います。究極的には、「相手が存在しているだけでいい」と思えるのが理想ですし、そういった関係になるととても居心地がよく、喧嘩や争いがなくなっていくということが容易に想像できます。相手のことを深く愛せるようになった時、自分への愛も非常に高まり、自己肯定感や自信も格段に上がるだろうと思います。もちろん一人で自分への愛を高めることもできるのですが、人間関係の中で揉まれるとより一層変容が進むのではないかと感じていて、それが人間関係の醍醐味だなぁと思います。他人と深く関わると面倒なことも辛いことも多いですが、自分を磨ける素晴らしい機会と思って、前向きに誠実に向き合っていきたいものです。

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