ピュアなこども心を思い出す

昨日今日も先週に引き続きフラワーエッセンスのワークショップに参加しています。昨日繰り返し浮かんできたメッセージは「ピュアなこども心を思い出して。楽しんで。」というものでした。家で引いたカードも同じような内容が出たので、本当に今そのメッセ―ジが必要なのだなと痛感します。何度も何度も出てくるテーマですが、とにかく自分が楽しい人生を送るにも書いたように、「ピュアな気持ちで楽しむ」というのは私にはなかなかできない課題のようです。

小さいころから世の中をクールに見ているところがあったし、今みたいな分析的な性質や、感情に飲まれないようなところはずっと昔からあったなと思います。どこか現実を見ていて、ピュアに夢を語る人とかに対してすごく冷静な視線を送っていたように思いますしね(笑)。「夢なんか見たら傷つく」という思い込みの記事にも書きましたが、本当に小さいころから、夢なんか見ても叶うわけないじゃん的思考パターンがあり、自分を見つめ直し続けている今でも、その思い込みは潜在意識にしぶとく残っていて、だからこそ同じようなメッセージが繰り返し降りてくるのかなと自分では思っています。いい加減手放したつもりだったのに、どこかまだブロックがあるのでしょうね。

もっともっと幼い頃はどうだったのでしょうか。アルバイト先の先輩の赤ちゃん(ほやほや)とたまに接する機会があって、まじまじと眺めていると、本当にエネルギーが繊細というか、愛に溢れていてピュアそのものなんですよね。自分の0歳児の頃はどうだったろうかと、瞑想状態になって当時の自分に意識を合わせてみたりすることもあるのですが、ピュアで疑うことを知らないというか、ただ本当に本能のままに生きてたなー、ということをなんとなく覚えている感覚を得ます。それが自我が芽生えるにつれて徐々に「自分は親に愛されていないのではないか」「望まれて生まれてきたのだろうか」「こんなことしたら怒られる(愛されない)のではないか」という思い込みが増えてくるんですよね。

ピュアな幼い頃の自分は自分に自信があったし、何でもできると思っていて、自分を疑うということを知りませんでした。「○○しないと愛されないのではないか」という「条件付け=思い込み」が増えるほど、私たちが受け取れる・扱える愛やライフフォース(生命力)といったものの器が小さくなってしまいます。赤ちゃんの頃は今よりももっと大きな器を持っていて、まさに愛や光そのものといった感じでした。結局私がずっと長いこと取り組んできた「癒し」のプロセスは、「条件付け」により小さくなってしまった愛の器を、また赤ちゃんの頃のように大きくするプロセスなのではないかと思ったりもします。そのためのヒントとして「ピュアなこども心を忘れずにね」というメッセージが胸に響くのでしょう。

何かに挑戦しようとするとき、夢や目標に向かっていこうとするとき、どうしても自分の中の頭のエゴが「無理だろう」「現実を見ろ」「お前には能力がない」と騒ぎ出してしまうものですが、小さいこどもの頃の自分だったらどうしたかな?どんなことを言ってくれるかな?と胸に手を当てて問いかけてみると、今の自分に必要なメッセージや障害となるブロックに気づけたりします。同じようにして未来の自分からアドバイスや励ましをもらうこともありますが、こどもの頃の自分も心強い味方です。

自分が愛されていることに何の疑いもなかった「無条件の愛」そのものの赤ちゃんの頃の自分は、自信を失いかけた私に何と語りかけてくれるでしょうか。返ってくる答えは人それぞれかもしれませんが、誰しも「無条件の愛」の記憶を必ず持っています。あまりに現実的になりすぎた時、自分なんて愛されないと感じてしまうとき、ピュアであどけないこどもの頃の自分に話しかけてみると、何か前へ進むヒントが得られるかもしれませんね。

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