現代における「有用性」至上主義の呪い

先週くらいから読んでいた本に書かれていたことに大きな気づきを得たのでご紹介したいと思います。『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』(井上智洋著)(リンク先アマゾン)という本です。以前に人工知能のことを学ぼうと思っていた時に図書館で予約して、だいぶ待って手元に届きました。この本はタイトル通り人工知能と経済の未来について論じられている本なのですが、一番おもしろかったのが「おわりに」という部分でした。アマゾンのレビューを今ちらっと見たら、やはり同じように「おわりに」が良いと感じられたの方もいらっしゃるようで、「うんうん、わかるなぁ」と思いました。

内容の本筋は人工知能と経済の話、ベーシックインカムとの関連の話で、私のような専門的な知識がない者にはちょっとわからない(というか自分の興味がないから入ってこない)こともありました。最後の「おわりに」の部分はより哲学的な話が語られていて、まさに私好みだったんですよね(笑)。ちょっとネタバレすると、機械化・AI化によって人々の雇用が奪われると言われて久しいですが、そうして大量の失業者が出た場合に、人間としての尊厳が失われたような感覚に陥る人が大量に出てくるのではないかという話がありました。それは資本主義社会においては「有用性」が非常に重視されていて、「役に立つかどうか」が人間の価値を決めるような固定概念がはびこっているということを示しているわけですね。で、その「有用性」について語っていたのがフランスの思想家、ジョルジュ・バタイユなのだそうで、バタイユの思想や言葉も紹介されていました。

また、資本主義社会においては「今」という時間が未来・将来に隷属されているといったことも語られています。小学生が将来のために塾通いをすることだったり、あとは老後に備えて貯金するという行為もそういった概念が根底にあると思います。スピリチュアルな世界観でも「今ここ」に生きることの重要性については耳タコなくらい語られていますが、バタイユの論にも通ずるところがあると感じますし、私もそちら寄りの考え方なので頷く部分が多いです。

「有用性」の呪縛については多くの方が感じてらっしゃると思います。働いていない役立たずは価値がないとか、働かざる者食うべからず的な固定概念は世に広く蔓延しているように思います。本来はそんなことなくて、人間一人一人は等しく価値があるし、それは条件付けの世界の価値ではなくて、ただその存在自体に無条件に価値があるといった意味での価値です。条件付けの世界だからこそ人々も病みがちになるし、自己肯定感の低下にもつながりますよね。

また、「有用性」というのは「損得勘定」ともほぼ同じ意味かと思います。本や記事のタイトルでも「知らないと損!」といった煽りをよく見かけますし、「どちらが得?」みたいな思考回路も私たちにはなじみが深いものです。何でもかんでも損得勘定で物事をとらえてしまうことには疑問を感じています。たとえば、私は文学部出身ですが、中には文学部不要論を唱えるような方もいらっしゃるかもしれません。確かに文学部で学ぶことは、法律や経済系に比べると実務レベルですぐに使えるものではないかもしれません。(短絡的でわかりやすく)「役に立つ・役に立たない」ですべてを決めようと、判断しようとするからこその考え方なのかなと思うこともあります。資本主義社会の実務レベルで役に立つかどうか、お金になるかどうか、というのが第一優先になっている社会の概念には危機感すら抱きます。

そしてまたブログや執筆の話をします。ブログがお小遣い稼ぎの手段として認知されるようになってから「ブログを書くなら広告を貼らないと損」的な概念も生まれてきたように思います。何でもかんでも損得勘定ですかい、と違和感を感じてしまう私は、創造的な活動に損得勘定を関わらせることに抵抗があるのだと思いますね。本当にその人の創造性が発揮されるのは、損得勘定抜きの純粋な衝動によって生みだされた時だと思っています。現代の資本主義システムはなんでもかんでも「お金になるか」「役に立つか」という観点が重要視されるあまり創造性が発揮されにくい、閉塞した社会だと感じます。今回こちらの本を読んでバタイユの思想に触れてみて、自分の資本主義に対する違和感を少し整理できました。次はバタイユの本を借りて読んでみようと思います。

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