「できない人」排除した先のディストピア

働いていれば誰しも一度くらいは「仕事ができない人、困った人」に関する話題に遭遇したことがあるのではないでしょうか。「あの人、辞めてくれないかな…」「あの人、異動してくれないかな…」と思ったことがある人はたくさんいるはずです。私自身は自分がそう思われる可能性もあると感じているので、あまり偉そうに「あの人は仕事できなくて困る」みたいなことは言えないのですが、仕事の出来不出来はともかく、根性の悪い人や性格のひん曲がったような人とは一緒に働きたくないという気持ちはあります。

困った人がいた場合、その人を組織・集団から排除しようという働きが起こることはよくあります。有償労働の場で考えれば、リストラや追い出し部屋への左遷などが考えられるでしょうか。そうしてその人を排除して、その組織は少しは平和になるかもしれません。しかし、その人はまた別の職場で働くことになるでしょうし、そうすればまたその職場の人が同じ思いをする可能性もあります。

今の社会は、「働かざる者食うべからず」がはびこっていて、「有償労働をできるかできないか」、ということが非常に厳しくチェックされているような生きづらい社会です。以前に書いた弱者切り捨てと命の選別という記事にもつながることですが、特に障がい者や病気で働けない人など、社会的弱者にとっては本当に生きづらい社会であり、生まれる前から生まれることを許されないような状況も生まれてきています。それって恐ろしい社会だなと感じます。過去には「働かなければ生きていけない」がそもそもおかしいという記事を書きましたが、元気に働ける人も働けない人も当たり前に生活が保障されている社会が、本来あるべき姿なのではないかと思っています。

それでも「仕事ができる・できない」についてはまだ救いがあるかなと思っています。ある職場でのある仕事には向いていなかったとしても、別の仕事には適性がある可能性があるからです。そもそも、日本は職業教育が希薄すぎて、なんとなく進学、なんとなく就職している現状があり、ミスマッチが多すぎるように感じます。最近、『若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす (中公新書ラクレ)』(濱口桂一郎著)という本を読んでいたのですが、日本の労働システムの特殊性に驚くとともに、これまで疑問に思っていたことが整理されていたので非常に勉強になりました。日本の就職は「入社」であって、「職業」に就くわけではなく、「入社」に当たってはスキルではなく「人間性」という曖昧なものが採用基準になっているという話です。「職業」や「職務」の規定が曖昧で、人事異動で全く別の仕事をやることも多いです。人事も組織内の政治が重要で、その人が何に向いているか、といったことにはあまり関心が向けられていないように感じます。たまたま受かった会社でやらされたことが向いていない、苦手であるということは本当によくある話、というか、ほとんどすべての人がそうなのではと思うくらいです(笑)。ろくに自分を知らずに、なんとなく仕事をしていることが多いですからね。自分の特性を知ることにより、より自分に合った仕事を見つけることができる可能性はあると思います。

では、人間性に難がある人の場合はどのようにとらえたら良いのでしょうか。私は以前は人間性に問題のある人は排除したいと考えるタイプでしたが、最近はものの見方が変わってきています。その人がそのような人間になってしまったのには、過去に深く傷ついた経験、自己肯定感を下げられるような出来事があったからであり、そういったことを思うと今の表面的なその人だけを見て一概には責められない部分があるなぁと思うようになりました。それは犯罪者の方に向けるまなざしとも通ずる部分があります。より大局的に見れば、その人との人間関係から学ぶことがあるから知り合ったということもあり得ます。学びが終われば関係も終わるかもしれません。

「排除」したがるというのは基本的に、「私はあの人とは違う」といった分離感、場合によっては優越感・劣等感からくるものだと思います。「自分もそうなるかも」「過去に深く傷ついたことがあったのかも」「働ける人も働けない人も等しく価値がある」「この人との関係に学ぶことがあるのかも」などと思えれば、「排除」すれば解決、とは思わなくなるのではないでしょうか。そもそもすべての人に、豊かに幸せに生きる権利と価値があるのだという前提に立って、自分のことを棚に上げずに、物事を見ていくことが大切なのではないかと思います。

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