血のつながりと心の絆の関係性

前回、前々回に続き、心の友との会話シリーズはまだまだ続きます。今回は、友人自身に血縁関係や血のつながりと心の絆について考えさせられる出来事があったとの話から、お互いに考えたことを書いてみたいと思います。かなりプライベートな話になりますが、最近友人の身内に不幸があり、親戚付き合いや血縁関係についての疑問に直面したのだそうです。話をする中で、友人の身内の死をきっかけにお互いの考えが深まったことも多数あったのですが、その話は別途おいおい書くことにします。

前回、「育ててやった」 親の発言に疑問という記事に、友人と私の親がコントロールしたがるタイプの毒親であるという話をちらっと書きました。似たような性質の親に育てられたからこそ私たちの友情が育まれてきたのかもしれませんが、お互いに同じようなことで悩み傷つき、同じような課題を抱えているなぁと感じることが多いです。「心の絆」という観点から言うと、私も友人も、親との間にあまり絆を感じていないと思います。確かに血はつながっているけれども、大切に愛情深く育てられたという実感に乏しく、親子であっても絆を感じることがなかなかできなかったりします。「心の絆」という意味では、赤の他人同士である私と心の友(というくらいだし)との絆の方が、よっぽど強いと感じています。

「遠くの親戚より近くの他人」という言葉もありますし、血のつながりや血縁関係があるからといって、「だから何?」というレベルのことも多いと思います。いわゆる「親戚付き合い」など、むしろ面倒なことの方に焦点がいってしまうこともあります。血縁関係や家絡みの慣習や風習って結構多いなぁと感じていて、やりたくもないのにとか、心はないけれどそういうもんだから、みたいな理由でやっていることって実は多いのではないでしょうか。誰しもが憂鬱でいい思いをしない親戚付き合いや慣習なんて、もうやめてしまえばいいのに、と私などは思ってしまいます。表面的でうわべだけ、気を遣うことばかりの血縁関係の集まりほど、無意味なものはないと思います。

そういう意味でも、「結婚」というのは特殊だなぁと感じます。血がつながっていない赤の他人同士が夫婦になり、家族になるわけですからね。そうして二人の愛の結晶として(なんかこっぱずかしい言い方)血のつながった子どもが生まれ、より家族の絆が深まる…ことになればいいけれども、たいていはそもそも夫婦の間に心の絆がないので、親子の間にも絆ができません。「そんなことはない!うちは違う!」と言う人もいるかもしれませんが、世の中の家庭・家族をありのままに見ると、本当の意味での家族の絆なんてないに等しいところがほとんどではないでしょうか。表面的に家族旅行に出かけるとか、家族写真を撮るとか、結婚式で親に手紙を読むとか、そういうことはいくらでもできます。「本当の意味での」というところがポイントです。

この日の私と心の友との間の結論は、心の絆やつながりという意味では、血縁関係や血のつながりはあまり関係がなく、他人であろうが遠くに住んでいようが、気が合う人とは合うし、合わない人は合わないのだということでした。この地球での物理的な生活において、たまたま親であり、子であり、同居人であり、といったレベルのことなのかもしれないよ、という話もしました。肉体面では確かに血がつながっていて、縁が深い人々ではあるだろうけれども、「血のつながった家族だから心の絆があって当たり前」ということではないし、むしろその逆のことも多いということもあります。

また、こんなことも話しました。肉体レベルでの自由意思では親を選ぶことはできないけれども、結婚相手を選ぶことは今の時代ならできる。これは私たちの希望だよね、ということです。自分の生まれについてはどうしようもない部分が多いですが、本当に心の絆を感じられる相手と結ばれることについては制限がありません。しかし、世の中を見渡すと、世の夫婦の多くが心の絆ではなくお金の絆で結ばれているように見えます。血のつながりやお金のつながりではなく、心のつながり、心の絆に重きを置いた生き方をする人が増えるといいなぁと感じています。

オフ会リクエスト募集中~→オフ会・イベント情報

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

「note見た」で友達申請→村上遥のFacebook

Twitter再開しました!→Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?