物言わぬ「いい人」は都合の「いい人」

言いたいことも言えないストレス社会ニッポン。ネットなどで、日本人はおとなしい国民性だから支配者にとって都合の良い奴隷となっている、的な論調をよく見かけますが、私も本当にその通りだなぁと思っており、過去には災害時に感じる「物言わぬ人間」を量産する教育への疑問という記事も書いています。言わないで我慢することが美徳、波風を立てないのが良い、嫌われたくない、仲間外れにされたくない…などいろんな考えが根底にあるのでしょうが、物言わぬ「いい人」は、ただただ「都合のいい」存在であって、言いたいことはちゃんと言っていかないとだめだなぁとつくづく思います。

私は役所に入って最初に配属された部署が公園緑地を管理する部署だったのですが、仕事をしていて「これは言ったもの勝ちだなぁ」と感じる局面がいくつもありました。この部署では「この部分の枝がはみ出しているので切ってほしい」的な陳情を受けることもあり、そういった要望は日常的にあるのですが、やはり声の大きい人から対処するようなところはありました。どんな仕事であっても、強く言ってくる人に対しては(もうその人と関わりたくないということもあり)甘めの対応をしてしまうということはあるのではないかと思います。まともな言い分ならまだしも、理不尽な要求に対しても同じように対処されることについては疑問に感じています。強く言えば通るという成功体験を与えていいのだろうかと、同じように思われる方は多いでしょう。

かと言って、明らかに相手に非がある場合に物を言わずに言いくるめられてしまうのもやはりおかしく、言いたいことはちゃんと言うべきだなとも思います。プライベートでこんなことがありました。年末に小学校の友人たちと久しぶりに集まることになり、友人があるお店を予約してくれたのですが、当日お店に行くと予約が取れていないと言うのです。友人も記憶が曖昧だったので一度は引き下がったのですが、友人の携帯に電話した履歴が残っていたこと、電話後すぐに私たちに日時のラインをくれたことなどから、間違いなく予約しただろうということになり、もう一度お店に交渉に行きました。そして、席が空く少し遅い時間に予約を確保、お店の方のご厚意でドリンク等をサービスしていただきました。お店の方が良い方だったということもありウィンウィンに収まりましたが、あの時交渉しなければ後味の悪いまま、あのおいしいご飯の味を知らずに帰っていたかもしれません。やっぱり言うべきことは言わないと、と思った出来事でした。

かく言う私も物言わぬ「いい人」で長年やってきましたし(笑)、今でもその傾向はあります。言いたいことがあった場合でも、喧嘩みたいになるのは嫌だな、とか、めんどくさい人と思われるのもなぁ、とかいろんな考えが頭をよぎり、葛藤します。些細なことであればその程度の葛藤で済みますが、どこまで大きく物を言うかでも話は変わってくるでしょうね。内部告発や訴訟といったことになると、人生をかけて…ということになったりもします。その場合は泣き寝入りしたくないけど大事になるのも嫌だ…という葛藤も生まれそうですね。

最近は雇用や労働関係の本なども読んだりするのですが、「労働組合で団結を」的な結論に至っているものも多々あり、労働組合で団体交渉をして処遇改善を訴える、というやり方自体を社会全体で選択肢に入れていくといいのかなと思ったりもしています(もともとあるでしょうがより現実的に、活発にという意味で)。最近では署名サイトも盛り上がっているようで、私もいくつか署名したりしてみました。実際に声をあげることなしに、社会は良くなっていかないものですからね。これからはいよいよ市民革命の時代が到来しそうですね。何も言わないままでは本当に権力者の思うがままにやられてしまいます。というか、すでに手遅れというレベルでやられてしまっていますけどね。

おかしいと思ったことを言わずにため込んでしまうと、それこそ病気にもつながったりしますし、本当にいいことがありません。ならばと言いたいことを言うとしても、その言い方というのは本当に難しいものがあります。家族、友人、上司、会社、行政、国など、相手によっても適切なやり方は異なってきますし、専門知識が必要な場合もありそうです。まずは身近のやれる範囲で、言いたいことを言う地道な訓練をやっていきたいと思います。

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