あふれるモノと心の「貧困」

外の世界にのまれすぎずに、客観的に、冷静にこの世の中をとらえてみると、「なんでこんなにモノであふれていて必要なモノが何でもあるのに、貧困に苦しんでいる人が大勢いるんだろう?」と疑問に思います。最近知り合った方で中南米の最貧国に行ったことがあるという方がいて、そこで一番強く思ったことは「なんて日本は恵まれているんだろう」ということだったそうです。物質的豊かさという意味では、日本は世界でもトップクラスだと思います。かといって、人々が心豊かに暮らしているかと言えばそうでもない、むしろ社会全体が病んでいる、と言うことはどなたの目にも明らかだと思います。

日本でも若者の貧困、シングルマザーなど、経済的に苦しい人々の話題には事欠きません。世の中をフラットな目で見つめれば、「モノなんかいくらでもあるんだから、みんなで分かち合って助け合って生きていけばいいじゃん、ただそれだけじゃん」と思うのですが、それができないところに人間の欲の深さと精神的未熟さを感じてしまいます。分かち合いや助け合いが機能しにくくなった要因の一つには「無縁社会」「単身世帯の増加」「都市化」などがあるように思います。西洋思想の影響や家電の大量生産などにより、大家族から核家族化が進み、親子間の助け合い意識も薄くなり、分離感の高まりとともに地域コミュニティが機能しなくなってしまいました。以前に家庭内の息苦しさと「無縁社会」という記事を書いたことがあり、その記事にもありますが、江戸時代的な長屋での暮らしや大家族での生活などを見ると、当時の暮らしの方がよほど心が豊かで本来的な生き方をしていたのではないかなと思ったりもします。現代の暮らしが当たり前のように錯覚しますが、今の社会様式はほんの数年~数十年レベルの間の「常識」にしかすぎません。

お金、物質を追い求めるにつれて、それに相反するように心は貧しく、貧困になっていくものです。個人レベルならまだしも、それが社会全体の集合無意識レベルでの思想になってしまっているのがこの現代社会と言えると思います。社会が閉塞していて生きづらい、殺伐としている…そうだとすれば、それは人々の心を映し出しているだけで、すべては内面の投影です。見渡せば敵、自分のものは自分のもの、相手のものも自分のもの(ジャイアニズム)、奪い合い、勝ち負け、損得勘定…そんな価値観がひしめく社会ではどうしても心を開けず、守りに入らざるを得ません。今のこの現代社会は「心の貧しさ、ここに極まれり」といった感じで、物質的な豊かさは最高潮に達したとしても、心の貧しさも同時に最高潮に達しているような、幸せとは程遠い世の中なのかもしれません。

結局のところ、「貧困貧困」と経済的な問題だけがあるかのように言われてはいるけれども、一番の問題は心や内面の領域であり、多くの人が握りしめている価値観、思想、固定概念の問題なのだと思っています。人生について、生き方について、人間について、愛についてなど、本当に大事なことについての学びが浅かったり、自分の価値観や思想が定まっておらず、世間の人々の風潮に流されて漠然と生きている人がいかに多いか、ということを日々感じます。学校では社会の歯車になるために必要なことはこれでもかと教わりますが、人生における大切なことは何一つ教えてくれません。現代社会の授業で貧困問題を取り上げたとしても、根本原因は人々の心の貧しさである、とは絶対に言わないでしょう(笑)。「自分さえよければいい」から「分かち合い・助け合い」へ、人々の意識が変わらない限り、貧困問題の根本的な解決には至らないと思います。制度、仕組みを変えるにもまず、人々の意識から。私自身への自戒を込めて、これからもより一層内面を磨いていこうと思っています。

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