【誤削除再掲】「人間にしかできないこと」の価値は高まる

(2016年9月15日9:28の投稿を誤って削除してしまったので同内容再掲)
異常な眠気、目標リセット、ふらふらいろんなことが定まらなくて、ブレブレの毎日なのですが(笑)、そんな中にあっても、いやあるからこそ?、世の中の動きや動向には敏感なようで、「これからの世の中はこうなる!」的な予想をするのは相変わらず大好きでついやってしまいます。以前から注目しているのはAI(人工知能)の技術革新のことですが、様々な仕事がAIにとってかわると言われている中で、じゃあ本当に人間にしかできないことは何か?人間とは何か?ということに思いを馳せることが多くなりました。

少し前に自分にしかできないことをやるという記事を書きましたが、もっと言うと、「人間にしかできないことをやる」ということがこれからは重要だろうと思っています。「誰もやりたがらない仕事=誰がやっても同じ仕事=AIにもできる仕事」という構図があり、誰もやりたがらない仕事は淘汰されるの記事にもつながるのですが、結局はイヤイヤ誰もやりたがらない仕事を続けても、AIにとってかわられる可能性が高く、最終的には疲労感だけが残り、全く報われなさそうだな、というのが今の私が考える展望です。何年後にどのくらい普及しているかとか、実用性がどの程度あるのかといったことは未知数ですが、10年前の今ごろはスマホを持っている人がいなかったことを考えれば、AIの台頭による急激な社会の変化というのはあり得ない話ではありません。

AIは単純な情報処理の他に、小説を書いたり、音楽を作ったりといった創作活動もできるらしいです。AIはクリエイティブでもあると。じゃあ小説家やミュージシャンも淘汰されるかといったらそんなことはないでしょう。いくらAIが村上春樹っぽい小説を書いても、星野源の雰囲気に限りなく近い音楽を作っても、それは本物とは似て非なるもの。AIによる村上春樹っぽい小説、とか出たら一部の人は買うかもしれませんが、それでも村上春樹を脅かす存在ではないでしょう。私もいくら似非AI星野源が現れたとしても、星野源の音楽を聴くと思います。結局は星野源っぽい音楽が好きで聴きたいのではなくて、星野源という「人間」のファンなのだということです。

じゃあとどのつまり「人間」ってなんなのさ、という究極に哲学的な問いにたどり着いてしまいます。ここ数日考えて思ったことは、やはり「ドラマ性」であったり「もがき苦しむ様子」というのが人間らしさなのではないかということ。平凡で何も起こらない物語はドラマや映画にはなりえません。スピ的に言うと、私たちはこの肉体という乗り物に乗り、超リアルな仮想現実空間を楽しんでいると言われています。高次の自己(ハイヤーセルフといったりもする)は私たちが体験するこの三次元世界で自分が主人公のDVDや映画を観ているのだと。この話は過去にも何度か書いたと思います。であれば、私たちが生まれてきた理由や目的というのは、この三次元のドラマを楽しむこととも言え、人間らしさというのはその人生の「ドラマ性」にあると言っても過言ではないのではないでしょうか。

AIは情報処理が得意で、あらゆるものから学習して積み重ねてその時々に最適なものを提供してくれるのでしょうが、そこに「ドラマ性」はありますか?私が小説、音楽、絵画などの作品を楽しむときというのは、その作品自体は言うまでもなく、その作品が生まれた背景や作者の苦悩や思いみたいなものをすごく見ている気がします。どんな思いで作ったのだろう?どんな体験がベースにあるんだろう?表現者はいつも思い悩んで作品を作られているように思いますが、私はそこに「ドラマ性」を見るのでしょうね。だからこそ私はその作品とともにアーティスト、人間のファンにもなるということなんです。

AIと人間の最大の違いはその「ドラマ性」なのではないでしょうか。何か壁や障害にぶつかって、もがき苦しんで、それを乗り越えて成功して、でも成功したらしたで苦悩があって、またもがき苦しんで、新たな道を見つけて、そしたら病気になって、それを乗り越えて、新しい価値観が生まれて…みたいな。その生きている上で避けて通れない「ドラマ性」こそ、人間からしか生まれない「価値」なのだと思います。これからのAI時代に向けて、「人間」とは何か、改めて思いを馳せる良い機会が得られました。

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