「雇用のための過剰生産現象」を感じる今日この頃

またしても頭が思想家モードになりつつある今日この頃。昨日の現代における「有用性」至上主義の呪いという記事で、フランスの思想家、バタイユの「有用性」の概念の話に少し触れました。そして昨日早速図書館に行き、バタイユの本を借りて読んでみました。難しいところは読み飛ばしましたが、ざっと読んだ印象では、やっぱり自分と興味の対象が似てるなぁということでした(笑)。神秘主義に傾倒したり、形而上学を研究したりと、内面世界や精神世界に意識が向いていた方みたいです。天文的、占星術的な知識ももちろんあったようです。そして、資本主義批判とその先にある共同体思想の概念もほぼ同じでした(とはいえ深い部分はわからないので違うかもしれません)。詳しくは私もわからないので本当にざっとなのですが、頷ける部分がかなりある思想だと感じました。これからも本を読んだりしながら理解を深めたいところです。

バタイユの論からは少し離れて、私が今、肌感覚で感じていることを少し書いてみます。ここのところ、今まで以上に世の中を見渡して物事をとらえようという気持ちが強くなってきていて、特に今のビジネス的、経済的に世の中はどうなっているのだろう?という、全くもって専門外のことに関心を寄せています。以前から書いているように、私には何をやってもうまくいくようには思えず、すべてが斜陽しているように見えます。これから経済成長があるとは思えないし、右肩下がりの一方だと思います。あらゆる業界が斜陽していて、今から何かに大規模投資しても回収できないだろうということが目に見えているように思えるのですね。以前に、小さく始めて、小さく維持するという記事にも似たようなことを書きましたが、規模の大きいものや莫大な初期投資がかかるものはリスクが大きいと思います。

これだけ世の中モノであふれていて、衣食住には困らないのにもかかわらず、こんなにも心身を病む人がいるというのは明らかにおかしいし、社会のひずみが顕在化しているということですよね。以前に食品ロスと「必要な分だけ」意識という記事にも書いたことがありますが、あらゆるものが過剰のように思えています。いずれ捨ててしまうものを作るのに無駄な時間・コスト・エネルギーを使っている。「世の中こんなにたくさんの仕事がなくても回るんじゃないの?」と本気で思うし、要らない仕事は星の数ほどあると思います。それでもなぜその仕事があるのかと言えば、人々の生活のための生活費としてのお金が必要という意味合いが大きいと思います。社会にとって必要とか役に立つかどうかといった観点ではなく、人々の所得の確保先としての仕事があるというイメージ。うまく言えないですけど、人々の生活のために世の中にとって要らない仕事が存在しているのではないかということです。雇用を増やすための過剰生産現象が起きているとも言えるかもしれませんね。

「有用性」の観点ともやはり似てくるのですが、世の中を回すためにはみんなが働く必要はなくて、もっとあらゆるものの規模を縮小しても困らないんだと思います。今は雇用のための生産みたいなものが過剰なばっかりに、大量にロスや在庫を抱えたりして、自分たちの首を絞めているように思います。そして「働かざる者食うべからず」的な概念が世の中に蔓延しているがために、ちょっと働いていないと「自分はダメなんじゃないか」と思ったりしてしまうこともありますよね。「働く」とか「お金を稼ぐ」ということは一体何なのか?、よりフォーカスされる流れが続きそうです。このまま本当に機械化・AI化が進んで人間の仕事が減ってきた場合、働かずに(給与所得的なものを得ずに)消費だけする人が増えると思いますし、そうなった場合には必然の流れでベーシックインカム論が今よりもっと立ち上がってくるのではないかと思いますね。

ベーシックインカムと言えば、子育てに「ベーシック・インカム」の視点をという記事を以前に書きました。まずは福祉の分野からでも、こういった制度が取り入れられると良いと思います。世の中の流れをよーく感じて、社会が変わりつつある中でいまだに過去の概念に縛られていないか、このやり方は古いやり方ではないか、と見つめ直してみるのは大事だなと感じます。今のこの激動の時代の中で、いかに今までの概念を疑い、取捨選択していくか。それが後々の在り方に莫大な影響を与えることに間違いはありません。

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