「宇宙シナリオ」とパラレルワールド

この記事は昨日の「宇宙シナリオ」は完全であり絶対的の記事の続きになりますので、先に読まれてからお読みくださいませ。昨日の午前中にこの記事をアップした後に仲良しの友人と会う約束をしていて、その方が会ってそうそう、「今日の村上さんのnote読んだよ、面白かったよ」と感想を言ってくださりそのまま宇宙シナリオの話をすることに(笑)。リアルな友人でも共鳴する方にはハマるようで、読んでくださって有難いなぁといつも思っています。

昨日の記事で、2001年の『世にも奇妙な物語』で放送された『エキストラ』という作品をご紹介しました。人々が決められた台詞しかしゃべらない世の中、それに反発心を覚えた主人公が最後に台詞を捨てて自分の言葉でしゃべり始めたのにもかかわらず、その言葉すら別の人の台本に書かれていた台詞だったというオチだったんですね。友人ともこの話になり、全ては台本通りなのだろうか、未来は決まっているのだろうか、自由意思はあるのだろうかとお互いの考えを話してみました。結局結論は出ないんですけど、こういう話をするのはなんだか楽しい私なのです。

昨日面白いねと言って話していたのが、ラスト、主人公が自分の台本の台詞を捨てたけれども、それが別の人の台本に書かれていたとしたら、それは「パラレルワールド」の考え方っぽくないか、ということ。パラレルワールドについて私もうまく説明できないんですけど、平行宇宙とか多元宇宙とかとも言われていて、今私たちが体験している現実とは別の宇宙…現実というのかな…が同時に存在しているという説ですね。詳しく知りたい方は調べてみてください(笑)。ドラマの話で言うと、主人公の一郎が最後に渡されたサラリーマンの台本通りに生きる世界と、途中で台詞を捨て、気になっていたはる香に話しかけるという世界とが同時に存在していて、彼が台詞を捨てた時点でパラレルワールドに移行した…別のパラレルワールドに行ったとも言える?…という見方もできます。それは主人公がクリエイトしたわけではなく、そういうパラレルワールドはもとからあり、だからこそはる香の台本にはそのセリフが書いてあったという…。つまりは、どのパラレルワールドを選ぶかというのが我々の言うところの「自由意思」ということになるのではないかなという話になりました。自分がよくわかってないからまとまってなくて恐縮です(笑)。

けれどもその「自由意思」というのは、パラレルワールドが存在する範囲内でしか思い浮かびえないというか、存在しえないという気もしていて、とはいえ無限のパラレルワールドが存在するのであれば、無限に自由意思も存在するのかな?…と既に迷宮入り感でいっぱいです(笑)。よくスピ系のサイトなどでは、「その人のエネルギー、意識、波動レベルに合った世界が現実化しています。」とも言われています。渋谷を例に出すと、青山や表参道寄りの意識で生きるか、スクランブル交差点やセンター街の意識で生きるかによって、人生が変わってくるよ、ということなんですけど、例えば青山のセレブ妻が毎日ファストフードや牛丼を食べたり、センター街のあんちゃんが毎日オーガニックのヘルシーフードを食べたりするということは考えづらいですよね。その人の意識レベルとパラレルワールド、自由意思の関係はどのように相関している、もしくはしていないのでしょうね?

私たちは完全なる自由意思を持っているように錯覚しながら生きているのですが、結局私たちが何をしようとも、宇宙シナリオにおいては「想定内」であり、すべてのパラレルワールドは用意されていると見て良いのだと思います。『エキストラ』ではそのことが言いたかったのかなとふと思いました。我々は宇宙シナリオにおいて「想定外」である自由意思を持つことはできず、その意味では自由意思はないと言えますが、すべてが「想定内」なので無限の可能性があるとも言えるということですね。なんだかややこしい(笑)。私たちはみんな、壮大な宇宙シナリオの脚本家である大いなる存在とハートでつながっています。シナリオ通りに進もうとすればするほど、大いなる流れに乗れるようになるということです。シナリオを知っているのはエゴではなくハート。完全であり絶対的な「宇宙シナリオ」を信頼し、ハートの「自由意思」の導きの流れに乗ってこれからも人生を歩んでいきたいものです。

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