「いくらでも豊かになって良い」は貧困がなくなってから

グローバリズム、資本主義を象徴するような言葉「いくらでも豊かになって良い」。昨今ではスピ系の本やサイトなどでも見られることがあります。聞いていて心地が良くなる言葉で、欲望を無限にかきたてられるような、そしてそれを肯定してもらえるような感覚になり、この言葉に触発される人もいるのかもしれないなぁと感じます。「豊かさ」にもいろいろありますが、この場合は金銭面での意味合いが強いのではないでしょうか。「いくらでも豊かになって良い」と言う人ほど、商品やセミナー料金は高くなりがちなようにも思います。

私も世の中のことをまだよくわかっていなかった頃であれば、「そうなのかぁ、豊かになって良いんだ」と納得させられそうになったかもしれません。しかし、色々と勉強をして世の中のことが徐々にわかりつつある今では、「それは違う。支配層にとって都合の良い悪魔的思想だな」と思うようになりました。この言葉だけでなく、欲望をかきたてるような耳触りの良い言葉(スピ系に多い)は、悪魔のささやきであると思った方がいいと思います。

「いくらでも豊かになって良い」というのは、この世に貧困で苦しむ人がいなくなってから言うことであって、世界中に1日1ドル以下で暮らしている人や食糧がなく飢えて死んでしまう人がたくさんいる状況で言うことではないと思っています。必要以上に富を蓄えるのではなく、必要な分以外は貧しい人に再分配する、というのが富を得た人に対する責務です。豊かになってはいけないから貧しくなりなさい、という極端なことではなく、貧困に苦しむ人がいる状況で必要以上に富を独占することは許されないという、ただ当たり前のことを言っています。しかし、グローバリズムは「いくらでも豊かになって良い(それがアメリカンドリーム)」といった思想をまき散らし、金持ちの成功者をもてはやし、自らの悪行を肯定しようとしています。

一般庶民が「いくらでも豊かになって良い」と思ったところで、必要以上の富を蓄積できるレベルには至らないので、大勢に影響はないじゃないかと思われるかもしれません。しかし、大多数の人がこの思想を肯定してしまうということは、グローバリズム、資本主義を根底から肯定することにもつながり、悪を悪と思えなくなってしまうというのが恐ろしいことだなと思っています。世の中を支えるものは、観念、思想、思い込みなので、そういった思想が前提としてあると、それに応じた現実が現れてしまいます。逆に言えば、大多数の人々が「そんなのおかしい」という考え方に変われば、社会もそれに応じたものになっていくはずです。

「いくらでも豊かになって良い」が蔓延すると、金持ち崇拝、貧乏叩きが加速して、人々の中の善悪の観念がめちゃくちゃになってしまいます。その結果が今の社会でもあると思っていて、本当に悪いのは富と権力を掌握する支配層なのに、生活保護を受けざるを得ない貧しい人が叩かれたりしています。今の社会のあり方であれば、その結果として一定数の貧しい人が生まれてしまうのは当たり前で、そしてその割合はどんどん増えていくように思っており、国民総貧困になる日もそう遠くはないのかもしれません。まずは、貧困に苦しむ人々がこの世からいなくなるような社会のあり方を考えていくべきだし、社会の根底にある思想に疑問を持ち、見つめ直していくことは意味があると思っています。金持ちに憧れ、崇拝するのではなく、富を自分だけで独占するのはむしろ悪であり、「いくらでも豊かになって良い」わけではないと、価値観を転換していく必要があるのではないでしょうか。

オフ会リクエスト募集中~→オフ会・イベント情報

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

「note見た」で友達申請→村上遥のFacebook

Twitter再開しました!→Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?