「何」より「誰」に習うかが重要

多くの人がよく言われていることですが、何かを習おう、教わろうとするときに大切なのは「誰」に習うかだと思っています。私も学生時代、受験勉強をしていた時も、好きな先生の授業はいつも楽しみでしたし、大きなモチベーションにもなっていました。学校では先生が選べないのがキツイところですが、塾では先生を選べたので先生目当てで通ったりしていたこともありましたね。わかりやすさとか人柄とか、合う合わないは必ずあるので、できるだけ相性の良い先生に教わりたいものです。

大学受験までは割とやらされ感的な、決められたレールの上を歩くための画一的な勉強でしたが、大人になってから何かを学ぼうというときは、さすがにやらされ感、強制と言うよりは、自主的な学びがほとんどだと思います。行こうと思えば遠い先生のところにわざわざ通うこともできるし、高い受講料のセミナーを受けることもできます。忙しかったら通信でもいいし、何を、誰に、どんな風に学ぶかということについては、割と自由に選ぶことができると思います。大人になってからさんざんいろんなセミナーを受けてきて思うのは、やっぱり「誰」に習うかが重要なのだなということ。教え方のうまさや的確さなどももちろん大切ですが、結局のところ「ビジョン」や「意識」に人は集まっているにも書いたように、教える人の根底にある思いや情熱、どんな意識で生きているのかということが人を惹きつける磁力になっているのではないかと感じます。一時習って終わりではなく、一生のお付き合いになる可能性もありますし、自分が魅力的だなと思える人、尊敬できる人に習えるのがベストですよね。

受験勉強の先生の場合は、大学に受かる!というのが共通のゴールとしてあるため、あまりビジョンや意識については考慮することがなかったかもしれません。それでも、ただ自分の生活のために教えているのか、本当に生徒一人一人が目標を達成できるようにと思って教えているのか、というのはなんとなく見ていればわかりますよね。とにかく東大至上主義でそれ以外はダメと見下す先生もいれば、高卒で働くのも専門学校に行くのも大アリで、たくさんの選択肢の中から大学進学を目指す人には合格してもらいたいから熱心に教えるという先生もいるでしょう。中には本当に大学に行く必要があるのか、よく考えさせる先生もいるかもしれません。共通のゴールがあってもこのような差は感じるものなので、大人になってからの学びはさらに多様性を増してくることは言うまでもないことです。

私が最近思うのは、パッケージ化されているものって、誰が教えても同じように教えることができるというメリット(最低限の質の担保)はあるものの、先生や教える人の独自性や思いがなかなか反映されにくいなぁと思う部分もあります。○○インストラクター養成講座、とか世間に数多ありますけど、それを学んだとしても、私はたぶん同じパッケージのものを教えるのはつまらないので、オリジナルのカリキュラムを作りたいなと思うだろうと思います(著作権的な問題もあって難しいこともありますが)。受講した講座の内容の中でも、自分もそうだと思う部分と、それは違うんじゃない?と思う部分があったりすることってありますよね。私は自分が違うと思うことを教えるのは不誠実だと思うので、自分が本当に良いと思ったこと、知っておいた方が良いこと、試して役に立ったことなどをお伝えできるのがベストだと感じています。それが結果「新しい価値を生む」ことだと思いますし、それが「人間にしかできないこと」(AI(人工知能)セミナーで感じたことの記事に書いた人間に残る仕事は「統合」「デザイン」と書いたので参考まで)として最後まで残るのではないでしょうか。

また話が広がってきてしまいましたが、何かを学ぼうとするときは、何を学ぶかも大切ですが、「誰」に教わるかをよく見極めたいということ、そして、教わったものをただコピーしていけば良いのか、異分野と組み合わせて新しい価値を生み出せないかなどを検討することも大切だということです。協会で囲い込むのも、養成講座でロイヤリティを得るのも、教える系ビジネスでは必要なやり方だと思います。個人的な今の思いを言うと、結局協会とかも「組織」ですし、しがらみや上下関係みたいなものが面倒で仕事を辞めた一面もある人からすると、もうこりごりという面もあります(笑)。「教える」「教わる」という形態についても、従来のあり方を立ち止まって考える時期なのかもしれません。

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