幸せはアピールするものではない

世の中が平和でより良くなるためには、自分の心を常に清らかに、平安に保つことが本当に大事なのだと気づいてから、より一層内面への探求に興味を持ち始めています。私たちはいつも幸せになりたいと願っているのに、なかなか幸せになれない(と錯覚している)のはなぜだろう?という疑問が常にあり、世の中で当たり前のように信じられている価値観や常識、思想を疑ってかかってみたりしながら、私たちを幸せから遠ざけるのはどんな生き方・考え方だろう?と思いを馳せています。なかでも気になるのが、わかりやすく「記号化」された幸せについてです。

私が一つ、これは真理だろうと思っているのが、タイトルにもある「幸せはアピールするものではない」ということです。本当に心が満たされて幸せであれば、他人にそれを見せびらかそう(とまではいかなくても)とか、アピールしようという気持ちにはならないんじゃないかなと思っています。これまで書いてきたネット・SNSシリーズ(ネット・知識・情報・メディア・教養・教育を考えるマガジンに多数あります)にも関係してきますが、幸せアピールするための○○、写真を載せるための○○…など、本末転倒っぽい行為も一部で流行っているようで、日常を切り取って投稿するのか、日常がアピールのためにあるのか、主導権はどっちなの?と思うような場面もありますよね。SNSの発展により、日常自体が自己完結できなくなった側面もあるのかもしれません。被写体としての自己の意識みたいなものが肥大化しているのでしょうね。

本当に本当に幸せで心が満たされている人には、他人というものはいなくなるのだと思います。そういう方は、誰かに認めてもらったり、「いいね」してもらったり、幸せを周囲にアピールしたりする必要は全くなくなるはずです。すべてが満たされていると、ただ「今」を感じて生きているだけで幸せ、という域に達するのだろうし、それが本当の意味での幸せなのだろうなと思っています。私はうさぎをなでているときにそれに近い感覚を得ますが(笑)、日常的に常時そういった感覚があるわけではないので、まだまだ条件付けの世界の住人だなと自分でも思います。わかりやすい幸せをアピールしたいという気持ちは全然ありませんけどね。

結構昔に本当にすごい人はすごいアピールしないという記事を書いたこともありましたが、今回も同じで、本当に幸せな人は幸せアピールはしないものだと思います。すごいアピールしている時点ですごくないし、幸せアピールしている時点で幸せではないという自己矛盾をはらんでいるように見えます(笑)。私はすごいアピールする人にも幸せアピールする人にも、絶対に近づきたくありません。おそらくろくなことがないだろうとわかるからです(笑)。私はむしろ、慎ましやかでも純粋で心がきれいな方、目立たないけれど本当に世の中のためになるようなことをされている方に魅力を感じますし、そういった方になりたいなと感じます。

他人にアピールできるようなわかりやすい「幸せ」というのは、たいていが外部の条件付け、物質的なものが多いように思います。豪華な食事、モノ、きらびやかな交友関係、家族と仲良し、彼に愛されている…等、どれもありがちですが、いずれもわかりやすい記号のようなもので、内面の世界の深い感覚ではないように見えます。むしろ、アピールすることに必死になりすぎて、心の平安が保てていないのでは?と思ってしまうくらいです。そういったわかりやすい記号を変にうらやましがったり、嫉妬することにエネルギーを使うのはばかばかしいです。幸せを外の世界の条件付けで判断してしまう価値観・思想がやはり諸悪の根源で、またしても壮大な幻想ですね。本当の幸せは内面の世界にあるもので、それは当然のごとく、他人にアピールする性質のものではないだろうというのが私の考えです。

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