二元論を捨て、「ありのままに観る」こと

昨日の「奇跡のリンゴ」木村さんの本を一気読みして涙した話にも書きましたが、この本の話からいろいろと気づくことがあったので、忘れないうちに記事にしておこうと思います。今日のテーマはスピリチュアル系の教えでもよく耳にする「ありのままに観る」ということについて。木村さんが無農薬のリンゴを作ろうとする過程で得た気づきにそのヒントがあると思いました。

木村さんは無農薬のリンゴを作ろうとする過程で、始めは農薬の代わりに病害虫を退治・駆除する身のまわりの安全なものはないか、試し始めました。たとえば、醤油、お酢、わさびなど。しかし、何を塗ってもうまくはいかず、リンゴの木は枯れる一方。自殺しようとした時に、森の中で元気に生い茂るどんぐりの木を見て、自然のままにしておくのが一番、そして畑の土と森の土が全く違うことに気づき、土の研究を始めました。また、一つ一つの虫をじっくりと観察し、面白いことに気づきました。一般に害虫と言われる葉っぱを食べる虫と、益虫と呼ばれる害虫を食べる虫をルーペで見比べたところ、害虫はかわいい顔をしていて、益虫はこわい顔をしていたのです。害虫は嫌だ嫌だと思っていたけれど、顔をよく見たらかわいかったので、葉っぱに戻してやったそうです。そこで、害虫・益虫などと言う区分けは、人間の自分勝手な線引きに過ぎないと悟ったのだそう。

この部分を読んだ時、まさにこのことが「ありのままに観る」ということだと思いました。知識や経験も確かに大事なのですが、それがあるばっかりに、始めから先入観ありきで物事を捉えてしまうように人間はできています。害虫と言えば人間にとって良くない虫、益虫と言えば人間にとってありがたい虫、という区別は長年の知識、経験からきていますからね。そうではなくて、すべての生き物(鉱物や微生物含め)を偏見なく見てみることで、今までと違った視点で物事をとらえることができ、それがすべての生きとし生けるものと心を通わせ、すべてを尊重し、すべてがもともとは一つであるという認識を深める助けになります。この植物はこういう名前でこういう香りでこういう効能があって…と、知識をもとに分析するのではなく、「この植物はどんな感覚で生きているのだろう?」とか「この植物と心を通わせてみよう」とか、同じ「命」としての対話を試みることはとても大切だなと感じます。それこそがスピリチュアルで言うところの「ワンネス」や一元論的な世界観だと思いますし、現代の行き過ぎた二元論社会において、早急に取り戻すべき感覚ではないでしょうか。

私は個人的に縄文時代の文化の研究をしており(文献読んだりセミナー行ったり)、この活動はこれからの私の人生の軸となっていくだろうと感じているのですが、その縄文時代に深く根付いていたと言われるのが先ほどの「一元論的」世界観だと言われています。人間のエゴの肥大が招いた数々の環境破壊、戦争、食の汚染…常に目の前の「命」と対話することができていたら、そんなひどい事態にはならなかったはず。1万年以上も続いたと言われる縄文時代。「一元論的」世界観であったのであれば、平和な時代が長く続いたというのも納得できる部分があります。

私たちはたった数十年の人生しか生きていないのに、今の価値観がすべてと思っているし、二元論的世界観になじみすぎていて、それ以外の選択肢はないものと思ってしまいます。文明は進歩したと一般には言われていますが、それでも全く豊かになれず、国民総病み社会に突入し、病人は増え、貧富の差は拡大する一方。私は今の社会のあり方に限界を感じており、その状況を打開するヒントは太古昔にあると確信しています。だからこそ熱心に学んでいるのです。すべての対象を偏見を捨て「ありのままに観る」こと、心と心を通わせていくこと、そしてすべては一つであると肚の底から腑に落とすこと、そういった物の見方ができるよう、身近な自然から、そして太古の叡智から、日々学びを深めていきたいと感じました。

note過去記事一覧はこちら

ホリスティックな健康をサポートするGreen Cosmoのページはこちら

「note見た」で友達申請→村上遥のFacebook

Twitter再開しました!→Twitter

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?