「所有」「独占」のエゴ文化から離れよう

昨日の物欲がなくなった先に残るものの記事で、モノで自分を満たすことをやめたとき、最後まで残るのは「自己表現」ではないか、ということを書きました。この考察は自分の中でも結構興味深くて、まだまだこのテーマで深めていきたいと思っています。そしてもう一つ、これから盛り上がっていきそうな価値観が「シェア・分かち合い」です。このことについても過去記事、「シェア・分かち合い」こそがこれからの時代の共通言語シェアの楽しみは「自分を知ること」の記事に書いてありますが、ここでもう一度思うことを書いてみたいと思います。

「何かを持っている」という「所有」の概念は、エゴの文化です。縄文時代やそれ以前の古代の時代には「所有」の概念がない時代があったそうです。起源後のここ2000年はずっとこの「所有」の文化が根底にありました。「所有」は「不足感」を生みます。足りない、もっと欲しい、満たされない、人と比べてしまう…など多くの苦しみはこの「所有」の概念があることによりもたらされるものです。「所有」は独占を生み、支配を生み、持てる者と持たざる者の構造に分けられます。それこそが今の社会の構造そのものであり、富の一極集中や、支配層をトップとするピラミッド社会の元凶はこの「所有」の概念にあると言っても過言ではありません。

私は公務員時代に、少し土地に関する仕事をしていて、よく境界確認をしたり、登記所に行ったりしていたことがあったんですね。その時は何の疑問も思いませんでしたが、ある時瞑想中に、地球の土地はみんなのものなのに、なんで特定の人が「所有」していることになっていて、その場所にはその所有者しか入れなかったり、財産として扱われたりするのだろう、それって人間のエゴそのものじゃん!と感じたことがありました。人間が勝手に土地の境界を決めて、「持っている」気になっているということ。もちろん今の社会では便宜上必要なのかもしれませんが、根本的に何かがおかしくないか?とその時思いました。

「所有」は「独占」の感覚を生み、なくなることを恐れて守りに入ります。常に「恐れ」と隣り合わせということ。持っているものが多い分だけ、守らなければならないものも多くなり、心が満たされなくなっていきます。もちろん、心の持ちよう一つで、豊かな気持ちでモノを持っている分には不足感は感じずに済むかもしれません。結局、モノを持っていることと心の豊かさというのは全く別次元の話であり、モノで満たされるエゴというのはかなり刹那的で、限定的な話であるということです。「なくなる」「足りない」という気持ちにとらわれ続けている限り、真の心の豊かさには到達できないでしょう。

「シェア・分かち合い」の話は2つ意味があると思っていて、一つは「所有」から「共有」への価値観の転換、もう一つは、物欲を手放した後にも残る人間の根源的な「自分を知りたい」という欲求を満たすための、「感じたこと、思い、経験などのシェア」という意味です。今日は前者の方の意味の話をしたいと思います。今までの話の流れから言っても、「所有」の概念は徐々に薄れていき、社会の成熟につれて「共有」の概念が興隆していくことは間違いないと思っています。シェアハウスやカーシェアリングなどが代表的な例ですね。私の中では「所有」は「リスク」ですらあるという考えがあり、「持ちたくないからシェアで」という気持ちはありますね。意識レベルでは、誰かを蹴落として自分だけが儲かればいいという発想は徐々に薄れ、大企業だけが独占的に利益を吸いとれる構造への反発心がさらに芽生えると思います。敵ではなく仲間意識。共に豊かになろうという共同創造の時代の幕開けです。

ただ、全員が全員そうなるとは思えません。これからさらに意識の二極化は進むだろうと感じており、所有の概念を手放し、「シェア・分かち合い」の共同創造の時代の波に乗るのか、競争、ピラミッド、支配依存構造が幅を利かせている現状の社会の意識にとどまり続けるのか、その選択はその人次第。私はもうエゴバリバリの三次元的意識は手放そうという決意を固めました。まだまだ慣れ親しんだエゴ・「所有」の概念は根強いですが、少しずつ気づいては解放し、という作業を続けていこうと思っています。

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