「思い」や「情熱」がすべての原動力

ここ1~2週間はもう一つの健康情報ブログにもフェイスブックにも、特に何も発信する気にならず、ひたすらただnoteだけを更新していました。いつもならもう少し別サイトも更新するのに、なぜか書く気が起こりませんでした。今はとにかく意識を徹底的に見直し、整理しているところで、自分でも気づいていなかった思い込みや恐れや不安を少しずつ解放していく作業を続けています。

「魔が差す」瞬間がある弱さを認めるの記事にも書きましたが、ふと魔が差して「またOLみたいな仕事をすればこんなに悩まなくて済むし、簡単にお金が手に入るじゃん…」と弱気になり、また雇われるのも悪くないかも、と思ったりすることもあるのですが、やはり私の根底にある「思い」や「情熱」がうんと言わず、今のところはまたフルタイムで就職するというのは現実的ではありません。私の人生の目的が「生計を立てる」であれば、OLのようにフルタイムで就職して働けば良いと思いますし、今までは何の疑問も持たずにそうしていたわけです。しかしながら、今の私は個人的な生計を立てるという目標のためには頑張れないというか、いまいち動機として不十分です。「今の世の中はおかしい。もっとこうであればいいのに。」という「思い」や「情熱」こそが原動力となり、私を動かしているのです。

「内定」「結婚」をゴールと錯覚する心理にも書きましたが、「内定」や「結婚」といった通過点、ポイントが大事なのではなく、もっと大事なのは長く続くその先のこと。「世の中がこうであればいい」「こんなことで人を喜ばせたい」といった思いや情熱がまずあって、それを成し遂げるための選択肢としていくつかの会社があり、そこの会社の「内定」をいったんのゴールとするわけであって、相手相手の会社に応じて自分を変え、意見を変えていては、仮に内定が取れたとしても、その先私と同じような壁にぶつかるでしょう。大学時代までにそんな「思い」や「情熱」に出会う人はまれで、大抵の人は働きだして世の中のことがわかってきてから「こんなはずじゃなかった…」と気づくもの。やり直すのはいつからでも遅くないと思っています。

先日、高校の同窓会があり、懐かしのメンバーとつかの間の歓談を楽しみました。進学校はコンプレックスの温床でしたの記事に、私は今振り返ってみても高校時代にかなりの挫折感や劣等感を味わったと思っていると書きました。さすがに卒業して10年も経つとみんな人生それぞれで、大学がどうとか、就職先がどうとかいう話にはあまりならないもので、のど元過ぎれば熱さ忘れるじゃないですけど、コンプレックスで誰かに会いたくないなぁということもなく非常にフラットに皆と話すことができました。当時から優秀だった方々はやはり当時の夢や目標をしっかりと達成されている方が多いとも感じ、高校生当時は同じ「東大合格」を目標としていたように見えた同級生たちも、その先に見据えるものが違ったからこそ、受かる人、落ちる人がいたのだろうなとも感じました。受かるような人は当時から合格後にどうしたいという「思い」や「情熱」がしっかりとあったからこそ、受験勉強も本気で取り組めたのだろうなと思ったのです。もちろんもともとの頭の出来も違うのでしょうけど(笑)。

そんなこともあって、やはり「思い」や「情熱」を確固たるものにして、自分の中でしっかりぶれない軸にしていこうという決意を固めました。ふと魔が差しそうになっても、「こうしたい!」という思いのためには頑張れるような、そんな壮大な夢。大きな夢がまずあって、そのためのプロセスの通過点としての現実的な「目標」がある、そんなイメージです。またしても内観して、私の中の一番のモチベーションとなる「思い」や「情熱」の炎を消さないように大切に大切に見守っていこうと感じました。

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