「働かなければ生きていけない」がそもそもおかしい

6月3日に開催したオフ会の気づきの記事を前回書きました(オフ会開催&「つながり」の大切さの記事参照)。前回の記事には取り上げなかったけれど、重要なテーマとして挙がっていたのが「働く」ということについてでした。私のnoteを読んでくださっている方の多くの方がこの「働く」ということについて興味があるのではないかと思います。これまでを振り返ってみても、学生時代から今までの10年余りで自分の中の「働く」ことに対する思想や価値観は大きく変わってきているように思います。

世の中のことを知るようになって一番おかしいと思っているのが、「人間はなぜ働かないと生きていけないのか」ということです。人間以外の動植物には「働く」という概念はないですし、彼らは必要以上に自然や他の動物を傷つけることなく、調和的に暮らしています。人間は知性が発達していて、しかも現代は「高度に文明化した」社会を生きているそうです。それでもまだ、「分かち合い」をベースとした社会を築けていません。物質的には豊かになっても心は貧しいまま、ブラック労働により心身を病む人が後を絶たず、環境を破壊し、食べ物は廃棄し、税率は高まり、貧富の差は広がるばかりという惨状です。

以前に「雇用のための過剰生産現象」を感じる今日この頃という記事を書いたことがありました。あらゆる産業において、生活するためのお金を得るために雇用を生む必要があり、過剰に生産し、環境を破壊し、売れ残りは廃棄するという悪循環に陥っていると思います。公共事業も雇用を生み出すために行われる側面はありますし、人工地震説の一部の論では、地震を起こして復興すると建設業界が儲かる…というような話も耳にしますね。また、これからあらゆる産業がAIなどによって自動化していった場合、よく言われているような「AIに仕事を奪われる」事態も起こってくることと思います。生活のための仕事がなくなるという意味ではピンチですが、人間がやらなくていいならそれでいいじゃんという風にも思います。

「働いてお金を稼いで生活する」という概念があまりにも当たり前になっていて、あまりそこに疑問を持つ人はいないのかもしれませんが、私は「そこがそもそもおかしい」と思ってしまいます。誰しもが働かなくても最低限の生活が保障されているのが、知性を持った人間の「高度に文明化した」社会のあり方ではないかと思います。もし働かなくても最低限の生活が送れるようになるのであれば、世にあるブラック企業の多くは倒産するでしょうし、必要な仕事しか残らなくなると思います。最低限の生活では嫌という人ややりたいことがある人だけお金を稼ぐために働けば良いし、働くとしても週5フルタイムが基本という形は崩れそうです。生活が保障されていれば人々の心に余裕が生まれ、荒んだ心の人が減りそうですし、お金にならなそうなことも堂々とやれるようになり、文化や芸術が興隆しそうです。

こんなことを書いている私自身、家族4人(両親とおば+うさぎ)で3人がっつり働いていて、ありがたいことに現在の私は全く働かなくても生きていける状況にあります。物欲もなくミニマリスト気質なので、交通費と本代と個人の食費くらいしかかかりません。私個人がそういう家に生まれたために現在のところ生活に困っていませんが、もしすべての人がお金のために働かなくても生活していける状況になったら、いよいよ本当に「「働く」って何だろう?」と思うと思います。それに付随して「お金って何だろう?」「人生って何だろう?」「人間って何だろう?」という話になるんですよね。今の私はまさにそんな感じで、日々そんなことを思案しています。現代の社会においていかに働くか、ということも大事ですが、すべての人が働かなくても生活に困らない社会のあり方を考えることも大事だと感じます。一部の支配層が富を独占していることが諸悪の根源であり、彼らが善良な良心を持っていればこんな社会にはならないはずです。だからこそ支配層や悪の組織、彼らの思想を学ぶことに夢中になっている部分はあります。「働かなければ生きていけない社会」というのは、絶対的なものではなく、大多数の一般庶民への根深すぎる洗脳だなと感じますね。

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